(画像)Pavel1964/Shutterstock
(画像)Pavel1964/Shutterstock

大杉勝男「この1本をファンの皆様の夢の中で打たせていただければ…」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第72回

張本勲、白仁天らと並んで、東映フライヤーズ時代は「駒沢の暴れん坊」と呼ばれた大杉勝男。だが、球界きっての武闘派であると同時に、引退会見の席で「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」と一句詠むようなロマンチストでもあった。


【関連】大山倍達「不意をつかれる者は勝者ではない」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第71回 ほか

プロ野球界の喧嘩最強は誰かというときに、並み居る猛者の中から筆頭に名前が挙がる大杉勝男。単に血の気が多いだけならば、退場回数14回の日本記録を持つタフィ・ローズや鉄拳制裁でおなじみの星野仙一、やんちゃなエピソードに事欠かない中田翔などもいるが、大杉の残した〝戦歴〟は、まさに伝説級である。


1970年4月28日、後楽園球場で行われた西鉄ライオンズと東映フライヤーズの一戦、西鉄のカール・ボレスが二塁タッチアップの体勢から帰塁したところ、ベースカバーに入った大杉と交錯。「大杉に頭を押さえつけられた」と激怒したボレスが殴りかかった次の瞬間、そのままグラウンドに崩れ落ちた。


ボレスの口端から血が吹き出し、立ち上がろうにも脚が震えて動けない。大振りの左フックをかわすと同時に放った大杉の右ストレートが、「びっくりするくらい見事にアゴに決まった」と本人も驚くほどのカウンターで炸裂したのだ。


二塁塁審はこの大杉のパンチについて、「速すぎて私には見えなかった」と話した。見えなかったのなら暴行の証拠にはならない。それゆえに、この乱闘で大杉は退場になっていない。もっともこの件については、ボレスの素行が普段から悪く、また前年に『黒い霧事件』のきっかけとなる西鉄の敗退行為を告発し、不興を買っていたことで、大杉の行為があえて見逃されたという説もある。

二度も外国人助っ人をKOに

ヤクルト移籍後の78年には、巨人のジョン・シピンが死球に怒ってマウンドへ向かい、両軍ベンチを飛び出して乱闘が始まると、大杉は一直線にシピンに駆け寄り一撃で殴り倒している。

外国人助っ人の絡んだ乱闘はこれまで数多くあったが、その際に外国人をKOした日本人選手は大杉だけ。それを二度もやってのけたのだから、今なお〝大杉最強説〟が唱えられるのは当然だろう。


とはいえ大杉がキレるのは、故意死球や暴行などであからさまな敵意を向けられたときに限ってのこと。普段の大杉は極めて温厚で、周囲からのアドバイスも素直に聞き入れるタイプだったという。


その中でも特に有名なのが東映時代の打撃コーチ、飯島滋弥(52年の首位打者で、1試合11打点の日本記録保持者)とのエピソードだ。無名ながら東映のプロテストを受けた大杉は、打撃の才能を見込んだ張本勲の強い後押しもあって、これに合格。しかし、プロ入り後は長打狙いのアッパースイングがたたって、なかなか成績が安定しなかった。


これを熱心に指導したのが飯島で、そのかいあって3年目の67年には全試合に出場して27本塁打と、チームの主軸を担うまでになった。ただし、同年の107三振はリーグ最多。翌68年も長打力は発揮しながら、成績は安定しないままで、シーズン後半には極度のスランプに陥ってしまった。


9月6日、後楽園球場でのナイトゲーム。この日もまったく冴えない様子の大杉がバッターボックスへ向かうと、見かねた飯島は一塁コーチャーズボックスから駆け寄って、「スギ、あの月に向かって打て」と、レフトスタンドの上にかかった中秋の名月(正確には満月の前日)を指し示した。

日本シリーズで劇的な本塁打

このときのことを大杉は「最も飛距離が出る45度くらいの位置に月がありました。自信を失い不安定になっていたスイングを矯正するため、それを『月に向かって』という言葉で表現したんでしょうね。完全に目が覚めました」と語っている。この打席は平凡な外野フライに終わったが、その後は70年、71年と連続で40本台のホームランを放って本塁打王を獲得するなど、飯島のアドバイスは効果てきめんだった。

74年オフにヤクルトへ移籍後、78年には30本塁打を放ってリーグ初優勝に貢献した。同年の阪急との日本シリーズでは、3勝3敗で迎えた第7戦の6回裏、左翼ポール最上部ギリギリを通過する特大の一発を放つ。これに対して阪急の上田利治監督が「ファウルやないか」と猛抗議をしたため、1時間19分にわたり試合が中断。結局は本塁打と認められたが、大杉としては言いがかりをつけられたようで気に食わない。


その後、8回裏に打席が回ると「今度こそ文句のつけようのないヤツを打ってやろうと狙っていました」と、救援に出てきた阪急のエース、山田久志からトドメの一発を放ち日本一の立役者となった。


83年には史上初となるセ・パ両リーグ1000本安打を達成。しかし本塁打数は両リーグ200本達成に、あと1本足りず199本に終わる。同年の引退会見で大杉は「両リーグ200本塁打の、この1本をファンの皆様の夢の中で打たせていただければ、これにすぐる喜びはございません」と語った。


喧嘩上等でいながらロマンチストでもあり、本塁打を放てば観客席のファンに投げキッスをするお茶目な一面もあった。そんな大杉は引退後も野球解説者、タレントとして活躍したが、92年、肝硬変により名球会会員として最初の物故者となる。まだ47歳の若さだった。 《文・脇本深八》
大杉勝男 PROFILE●1945年3月5日生まれ〜92年4月30日没。岡山県出身。関西高から丸井を経て65年に東映(現・日本ハム)入団。75年にヤクルトへ移籍し、史上初の両リーグ1000本安打を達成した。主なタイトルは本塁打王2回、打点王2回。