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タモリさんの司会で31年続いた「笑っていいとも!」~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

B&Bは芸能界一浮き沈みの激しいコンビと言われますけど、確かにそうかもしれませんね。漫才ブームの前後合わせて、4年ほどの間にたくさんのレギュラー番組がありました。昼帯番組『笑ってる場合ですよ!』の司会を漫才師が2年間も務めたのは異例のことだったと思いますよ。後継番組として始まったのが『笑っていいとも!』です。


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タモリさんと俺らが初めて出会ったのは、東京進出後、まだ漫才ブームが起きる前でしたね。名古屋の大学の学園祭で一緒になったのがタモリさんでした。初対面のタモリさんの楽屋に挨拶に行くと「まだ深夜番組などにしか出演していない」と言っていたのを覚えていますよ。

舞台上のタモリさんの芸を見ると、4カ国語麻雀を披露し、学生も喜んでいましたね。タモリさんの芸を見た俺は洋八と「ものまね芸人でもないし、文化人でもないな」と話していました。誰かの歌まねをするような芸ではなかったですからね。

『笑ってる場合ですよ!』が終わり、『笑っていいとも!』が始まってすぐの頃、新宿のスタジオアルタでタモリさんに会ったんです。「どうですか? 昼の番組は?」「とりあえずやってみているけど、まあ続かないだろうね。僕は深夜の人間だから」。ご本人は「半年も続くかわからない」とも話してましたよ。

ちょうど、半年経った頃、「テレフォンショッキング」で人気に火がつきましたよ。1時間番組で一つのコーナーが当たると大きいんです。しかも「明日来てくれるかな?」「いいとも!」という掛け声で翌日のゲストを紹介するというのも斬新でしたからね。

レギュラー番組を抱え込まない

それと『いいとも』が31年半も続く長寿番組になった理由は、タモリさんの司会っぷりでしょうね。淡々とゲストの話を聞くでしょ。俺らが『笑ってる場合ですよ!』をやっていたときは、俺らの他にも日替わりでツービートや紳助・竜介をはじめ、お笑い芸人がたくさん出ていた。そうなると、我競うかのように、みんな笑いを取ろうとするんです。特番だったら、それでいいですよ。

でも、毎日となると見ている人も飽きますよね。しかも俺らは昼と夕方、毎日レギュラー番組があった上、週末の営業やMC9本にも出ていたんです。そうなると、見る側も飽きてくるし、俺らも話すネタが尽きてくる。一度なんて紳助が「B&Bを飽きさせる」と意気込んで、当時流行っていた「B&B」とプリントされたTシャツを着て番組に出演したほどですよ。

その点、タモリさんは『いいとも』で、コーナーによっては他のレギュラー出演者に司会を任せたり、レギュラー番組自体をたくさん抱えなかった。それが長く続いた秘訣でしょうね。

4年ほど漫才ブームで駆け抜け、疲れ果てた俺らは一度解散会見をしたんです。洋八はもともと新喜劇をやりたかったから、役者の仕事、俺は俺で時間に追われず適当にやろうってね。

嫁にも「頑張ったんやから3~4年遊べばエエやん」。「遊んだら仕事がなくなるやろ」と反論すると、「別に芸能人だけが世の中ちゃうで。家出した割には上手くいった方やで。なんの仕事でもエエやんか」。そう言われホッとしましたよ。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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