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大山倍達「不意をつかれる者は勝者ではない」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第71回

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(画像)ivan_kislitsin/Shutterstock

極真空手の創始者であり、数々の映画、ドラマ、漫画などのモデルにもなった大山倍達。波瀾万丈の〝大山伝説〟の中には周囲の創作も少なくないが、戦後の武道界に多大な功績を残した大人物であることは紛れもない事実である。

70年代から80年代にかけて爆発的ブームを巻き起こした極真空手。漫画『空手バカ一代』や映画『地上最強のカラテ』シリーズなどに感化された中高生が世に溢れていた当時は、極真空手を習っているというだけで一目置かれたものだった。そんな極真空手の創始者が〝ゴッドハンド〟と畏怖された大山倍達だ。

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1964年4月に個人道場を発展させた『国際空手道連盟 極真会館』を立ち上げると、会長には同年11月に内閣総理大臣となる佐藤栄作が就任。副会長(後に会長)の毛利松平も自民党の大物議員であり、極真会館設立時の大山は、すでに空手界でかなり名を成していたことが分かる。

戦後間もない52年に、大山はプロ柔道家の遠藤幸吉(後にプロレスラー)と共に渡米。日系人悪役レスラーとして活躍していたグレート東郷に率いられる格好で、西海岸を中心に約半年間、プロレス興行に参加している。そこで大山は空手の演武をはじめ、手刀によるビール瓶斬り、指先でのコイン曲げなどのデモンストレーションを行っていたとされる。

『空手バカ一代』では〝一流プロレスラーたちを次々となぎ倒した〟と描かれているが、これはかなり脚色されたもののようで、同行していた遠藤は大山の没後に「リングで戦っているところを見ていない」と話している。

ただし、大山自身はたびたび「ディック・リールというレスラーをノシた」と語っていて、また、当時のアメリカの新聞にも兄弟ギミックの『トーゴー・ブラザーズ』の一員、マス東郷として柔術マッチなどを行ったとの記録が残っている。

いずれにせよ、この時代は海外へ渡航するだけでも珍しいことであり(観光目的の海外渡航が自由化されたのは64年以降)、帰国した大山は一躍、時の人として週刊誌などの取材を受けている。

〝牛殺し〟で名を売った最強空手

54年には大山の活動を題材とした記録映画『猛牛と闘う空手』も公開された。同作のクライマックスとなったのが、同年1月に千葉県館山市の海岸で行われた、体重400キロ以上にもなる雄牛との一戦だ。映画のナレーションによれば、これを見るために集まった観衆は1000人以上で、現地には24人もの武装警官が配備されたという。

身長5尺7寸(約173センチ)、体重22貫(約83キロ)と紹介される大山は、真冬にもかかわらず上半身裸で、柄もののトランクスの上から太い革のベルトを巻いただけの姿である。

大山は両手を構えながら牛に歩み寄ると、鼻輪に掛けられた手綱をつかんで牛の動きをさばきながら、手刀をツノにぶち込んでいく。牛のクビを腕で抱えて、よじるようにして地面に組み伏せると、さらに手刀の追撃を加えていく。

振り払おうとする牛のツノで腹部に裂傷を負い、流血した大山だったが、それでも攻め手を止めることはなく、最後はツノをもぎり取るようにして勝利を収めてみせた。

翌日の新聞には「死か生かスリルしんしん」「決死的格闘を演ず 大山六段 暴れる猛牛相手」などの見出しが躍り、この戦いが映画用の演出ではなく真剣勝負であったことが分かる。

映画の公開と同時に〝牛殺しの大山〟の異名が広まると、それ以降も牛との戦いは56年の東京・田園コロシアムをはじめ何度か行われ、極真会館のホームページには「47頭の牛を倒し、うち4頭は一撃で即死」と記されている。

大山の目指した極真空手の本筋は、この牛殺しに表象されるような「実戦性」にあった。日本の空手は伝統的に、相手に打撃を当てない「寸止め」が主流であったが、大山は顔面と頭部への拳での攻撃を除き、すべての打撃をOKとした。

日本古来の武道に通じる極真魂

拳による頭部への攻撃を禁止したのは、特に安全面に配慮したというわけではなく、極真会館がオープンな大会を開催しようとした際に、警察から「顔や頭を素手で殴る試合は許可できない」との通達を受けたからだという。そのため大山は「蹴ってはいかんとは言われなかった」と、頭部への蹴りは認めている。

今もさまざまに伝えられる「大山倍達神話」だが、多くは『空手バカ一代』の原作者・梶原一騎の脚色に由来している。梶原は大山本人に対しても「貫禄を出すためにもっと太ったほうがいい」などと、プロデュースを試みていたとの話もあり、そのせいで大山のすべてを「虚像」と見る向きもあるが、しかし、最強の空手を追求したことは確かである。

91年11月の極真空手第5回世界大会で行われたアンディ・フグとフランシスコ・フィリォの一戦。試合時間の終了を告げるホイッスルが鳴った直後、フィリォの上段蹴りが炸裂してフグは失神。その場に倒れ込んでしまった。

フグ陣営は「あの蹴りは反則だ」と抗議したが、これに対して大山は「止めがかかったとはいえ、その不意をつかれる者は勝者ではない」と断言。日本古来の武道にも通じるこの大山裁定により、フィリォの勝利が確定した。

極真空手の会員たちも、そんな大山の武道精神を信じたからこそ、最大時には世界140カ国の公認道場で1200万人の門弟を抱えたとされる「極真帝国」が築かれたのである。
《文・脇本深八》

大山倍達
PROFILE●1923年6月4日生まれ〜94年4月26日没。47年に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。64年に極真会館設立。69年にフルコンタクトの第1回全日本空手道選手権を開催し、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。

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