下田美馬(C)週刊実話Web
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“美しき女豹”下田美馬インタビュー〜メキシコでも活躍、プロレス生活36年目の意外なエピソードとは〜

今年の8月5日でプロレス生活36年目を迎えた下田美馬さんに、全日本女子プロレス時代のこと、メキシコでの活躍、新日本プロレスでの仕事など、多岐にわたって語ってもらった。そこには不屈の生き様と意外なエピソードがあった!


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――下田さんといえば全日本女子プロレス(全女)時代からのレジェンドで、アイドル的な美人レスラーとしても印象深いですが、やはり全女時代は厳しかったですか?


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下田 いやいや、全然アイドルじゃなかったです。私はプロレスが下手で弱くて、全然ダメだったんですよ。同期の豊田真奈美には置いていかれるし、後輩の井上京子や井上貴子には追い抜かれるし、彼女たちは強くて、試合でメインを張っているのに…。


あの頃の全女は、負けると試合に出させてもらえない。負けると次はレフェリーをやらされて、さらに負けると売店に行かされる。売店だとノーギャラなんで、強い選手と収入面でも格差が大きかったんです。


――そういう意味でも当時は厳しい世界でしたね。


下田 やっぱり悔しくて、どうして押さえ込まれて抜けられないのかとか、ドロップキックがなぜ決まらないのかとか、巡業の後に特訓して、柔道をやっていたレフェリーに受け身や技を指導してもらいました。


――その結果、めきめきと頭角を現し、主戦場をメキシコに移しても活躍されましたね。


下田 私がメキシコに行くことになったきっかけは、日本にいられない状態のとき知り合いに連絡したら、ちょうどその場にウルティモ・ドラゴンさんがいらして「来られるなら今すぐ返事が欲しい」と言われたんです。それで即、右も左も分からないまま、言葉も話せないのにメキシコに行きました。そのときは現地ですでに大活躍していたHIROKAにもいろいろお世話になって、最初は誰かの後を付いていくばかりでしたね。


――でも、メキシコ生活は長かったですよね。自分に合っていた?


下田 メキシコには5年ほど住んで、日本と行ったり来たりしていたのを含めると、トータル16年になります。仲良くしていたメキシコ人は、みんな明るかったですね。トレーニングを中心に集まっていたんですが、特に仲良くしてもらっていたのが、新日本プロレスでも活躍しているボラドールJr.選手でした。


彼はメキシコ人らしくないというか、日本人的ですごくストイックな方なんです。冗談もあまり言わないし、練習熱心だったんですよ。メキシコ人はただ陽気なだけじゃなく、スペインに占領されていたという歴史があるので、民族としてのプライドが高いんです。だから9月16日の独立記念日は大盛り上がりしますね。 〝現役〟と裏方の仕事を両立

――そういったことは、やはり住んでみないと分からないですよね。ところで、メキシコでは飲みに行ったりしたんですか?


下田 治安が悪いので1人では絶対に行けませんでしたね。タクシーも1人で乗ったら危ないので、大抵は知り合いの方と一緒です。だから日本に帰ってきたときなんて、夜に1人で飲みに行けるなんて信じられないくらいでした(笑)。


――お酒はテキーラ?


下田 はい、テキーラやメスカルがおいしいので、ソーダで割って飲んでましたね。テキーラというと日本では罰ゲーム的ですが、本場のはおいしいんです。そういえば、新日本の高橋裕二郎選手は「テキーラ・マエストロ」の資格を取得していますよ。


――スペイン語も堪能になられたのでは?


下田 コロナ禍で4年ほど行ってないので、使わないと忘れてしまいますね。メキシコでは試合でもトレーニングでも、言葉を話せないとどうしていいか分からない。仲のいいメキシコ人のトレーニング仲間と一緒にいたら、自然と話せるようになりましたね。それが高じて、ジムでパーソナルトレーナーにもなれました。


――現在は新日本プロレスで、裏方というかバックヤードのお仕事をされています。大変ですか?


下田 男性の中に女性1人ですから、どうすればいいのか模索して気を使っていたつもりでした。でも、つい全女の荒々しいときの癖で、足元の荷物を蹴っ飛ばしちゃったんです。そしたら、それを見ていた選手が「美馬さん、今日は機嫌が悪いのかな?」って言ってたみたいで、逆に気を使わせてしまいました(笑)。むしろ男性のほうが気を使ってくれるので、それからは所作に気をつけるようにしています(笑)。私も女子プロレスラーですから、新日本の選手の気持ちを酌んで、裏方の仕事をしなければと思います。


――ご自身の試合は?


下田 スターダムさんの試合に出させていただいたときは、まだコロナ禍で無観客での試合だったので、昨年12月28日のシードリングでの本戦で、実に2年9カ月ぶりに観客の前で試合をしました。このときは体調があまり良くなくて不安だったんですけど、堀田祐美子さんがいたので心強かったです。しかも、デビュー戦と引退試合(2003年に一度引退、2005年に復帰)しか見に来なかった母が、姪と一緒に来てくれたんですよ。


――新日本の裏方の仕事と自分の試合と、体力的にもハードではないですか?


下田 以前に疲れてしまって、トレーニングをさぼっていたときがありました。そしたらタイガーマスクさんに会ったとき「なんか最近、太ったんじゃない?」と言われてしまいまして、それでこれじゃいけないって気がついて、トレーニングを再開したんです。タイガーマスクさんには感謝ですね(笑)。


やはり裏方とはいえ、女子プロレスラーとして新日本プロレスのお仕事をさせてもらっているのに、みっともない姿をさらしちゃいけないなと。体力のいる仕事でもあるし、1日1万歩から2万歩は動くこともあります。それに、いつでも試合のオファーを受けられる状態でいなきゃいけない。なので、今は毎日のトレーニングを欠かしません。 新日本の一員になれて本望

――現状、お仕事は楽しいですか?


下田 私は16歳で入門して、ずっとプロレスから離れていません。全女の頃、私は弱くて負けているのにいつも笑っていたらしくて、先輩に「なぜ負けているのに笑うんだ」と言われていました。でも、松永高司会長には「あの子が負けても笑うのは本当にプロレスが好きだからなんだよ」と言っていただいたんです。やっぱり楽しいんですね。


新日本でお仕事させていただいているのも同じで、プロレスラーとして「あのとき、こうしておけばよかった」と後悔をしたくない。選手から信頼してもらえるよう、日々頑張っています。新日本では、例えばG1だったら大会を盛り上げようと、スタッフや選手が一丸となって突き進む。その中の一員になれて、本当にやりがいがあります。


――これからの展望は?


下田 私は先のことをあまり考えないほうで、これまでも計画を立ててやってきたのではなく、行き当たりばったり的でした。でも、やりたかったことで、やれなかったことはなかったです。人と人のつながりって大事だと思いますね。


私はよく「気がつくとそこにいた」と言われますが、やはり周りの方々に助けていただいて、今があると思います。プロレスはもちろん、メキシコに行きたいと思っていたら行けました。ジムのパーソナルトレーナーにもなれたし、興味があった水商売もできました。そして、新日本でのお仕事も。唯一、できないのは結婚かな(笑)。 (取材・文/飯塚則子(ライスマウンド) 撮影/原啓之)
◆下田美馬(しもだ・みま) 1970年12月23日生まれ、東京都目黒区出身。87年8月5日、全日本女子プロレスの後楽園ホール大会でデビュー(三田英津子戦)。得意技はフライング・ネックブリーカー・ドロップ、デスレイクドライブ、かかと落とし、タイガー・スープレックスなど。身長166センチ、体重62キログラム。CMLL所属。