(画像)Andreas Poertner/Shutterstock
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中山雅史「僕はサッカーが下手だった」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第69回

ビートたけしがコントで扮した人気キャラクター、鬼瓦権造に顔が似ていたことから、大学時代についたあだ名は「ゴン」。常に明るく前向きなゴン中山こと中山雅史だが、その裏には人並み外れたサッカーへの情熱があった。


1990年に筑波大学からヤマハ発動機へ入社し、同社サッカー部に所属した中山雅史。93年のJリーグ発足に向けてヤマハは初年度からの参加を望んでいたが、選考から落ちてジャパンフットボールリーグ(旧JFL)にとどまった。


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その際、Jリーグ入りする他のクラブから誘われた中山だったが、オファーを固辞して残留。当時のサッカー選手なら誰もが目指していたプロへの道をあえて断ったのは、クラブ関係者の「ヤマハをどうしてもJリーグ入りさせたい」という熱意に、ほだされたところが大きかっただろう。


情に厚く、前向きで明るい性格は、今も昔も変わらぬ中山の持ち味であり、それはプレースタイルにも表れている。味方を信じて、がむしゃらに相手ゴールへ突進していった。


ヤマハは93年にクラブ名をジュビロ磐田に改称し、94年に1年遅れで悲願のJリーグ入りを果たす。すると、すぐにトップクラブの一角を占めるまでになり、中山も中心選手としてこれに大きく貢献した。

ジュビロ黄金期にゴールを量産

当時、ジュビロの中盤は名波浩、福西崇史、服部年宏など巧者ぞろいで、ここでボールを支配する「Nボックス」という陣形で緻密なサッカーを繰り広げていた。そして、中盤でキープしたボールをゴールまで運ぶのが中山の役割であり、常に全力でボールを追いかけ回す猪突猛進スタイルは、Nボックスとの相性がすこぶるよかった。

キャリアハイとなったのは98年シーズンで、得点王に輝いた中山は36得点を記録。これは2023年時点でもJ1の年間最多得点記録である。実のところ同年の中山は、故障のため全34試合中27試合しか出場できなかったのだが、そんな中で1試合当たり1.3点のハイペースでゴールを量産してみせた。4月には「4試合連続ハットトリック」という当時の世界記録も達成していて、このことは海外でも大きく取り上げられた。


中山は「得点王などのタイトルを獲得できたのは、チームメートのレベルが高かっただけ」と述懐しているが、その状況を生かすことができたのは、やはり何が何でもボールに食らいつくという姿勢があったからに違いない。


同年6月にはW杯フランス大会が開催され、そこで中山はW杯本戦での日本代表初ゴールも決めている。


グループH、予選リーグ3戦目となったジャマイカ戦。日本代表はアルゼンチンとクロアチアにいずれも0-1で敗れ、すでに決勝トーナメント進出の夢は絶たれていたが、まだ「W杯初勝利」という大目標が残っていた。


ジャマイカに2点をリードされた74分、ゴール前に上がったクロスボールを呂比須ワグナーが頭で落とすと、そこに飛び込んでいった中山がボールに右足の太ももをぶつけるようにして押し込んだ。


歴史的なW杯初ゴール。だが、中山は井原正巳と軽くタッチを交わしただけ。特にゴールパフォーマンスを行わなかったのは、まだ1点負けている状況で一刻も早くキックオフをしたかったためである。この試合後に右足腓骨の亀裂骨折が判明しているが、中山は最後まで走り続けた。

最後の最後まで現役にこだわる

体を張った全力プレーは練習も同じで、99年の代表合宿では練習試合中に相手選手と衝突して眼窩底骨折、失明寸前の大ケガを負ってしまった。しかし、中山は全治1年の重傷という医師の制止を振り切って、2カ月後には実戦復帰。Jリーグ年間優勝の懸かった清水エスパルスとの大一番で2ゴールを決め、勝利の立役者となっている。

人並み外れた運動量のせいで、若い頃からヒザの故障に悩まされてきた中山は、手術を繰り返した揚げ句、両ヒザの半月板がほとんどなくなってしまったという。だが、それでも走ることを止めなかった。


「人がやらないこと、人が嫌がることをやり続けなければ、自分はプロサッカー選手としてピッチに立てない」「僕はサッカーが下手だった」との覚悟を常に持ち、他の選手にできないことをやり続けた結果が、二度の得点王であり、歴代4位の157ゴール(2023年時点)であった。


12年、ジュビロから移籍したコンサドーレ札幌で、一度は現役引退を決意した中山は、「まだ未練たらたらであり、元気になったらカムバックするつもり」と話していた。


その言葉通り、47歳となった15年にアスルクラロ沼津に入団。現役復帰の理由を「諦めるためにやっている。やれることをとにかくやり尽くしたい」と語った中山だったが、試合出場のないまま21年1月に退団。最後まで引退の2文字を口にせず、「選手卒業なんですかね。留年かな。休学かな」と中山節で記者サービスに努めていた。


21年、22年と古巣のジュビロでコーチを務めた中山は、現在、アスルクラロの監督として指導者の道を歩んでいる。 《文・脇本深八》
中山雅史 PROFILE●1967年9月23日生まれ、静岡県出身。藤枝東高から筑波大を経て90年にヤマハ発動機サッカー部(現ジュビロ磐田)に入団。主力選手として黄金期を支え、ゴールへの嗅覚はもちろんのこと、そのキャラクターも多くの人に愛された。