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「1000本のタテカン」田中角栄の事件史外伝『宿命の二人――竹下登との“人たらし比べ”秘録』Part1~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

人への気配りには定評のあった田中角栄だったが、竹下登がやってみせた「1000本のタテカン(立て看板)事件」には、うならざるを得なかった。昭和40(1965)年7月投票の参院選に際して、田中は自民党幹事長として選挙戦の指揮を執り、竹下は内閣官房副長官として、共に佐藤(栄作)派に所属していた。

折から田中幹事長は、車で山口県から竹下の地元である島根県を通って、鳥取県へ抜けるという選挙遊説のコースを走っていた。そうした中、田中がちょうど島根県入りしたとき、竹下も地元選出の自民党公認候補の応援で帰ってきていた。

田中幹事長来たる! 竹下は待ってましたとばかり、山口県と島根県の県境に位置する津和野で、田中幹事長一行を出迎えた。竹下は一行の先導車に乗り込むと、日本海沿いに京都方面へつながる国道9号線を鳥取県へ向けて走った。

ところが、車の窓から外の景色を見ていた田中は、しばらくすると首をかしげ始めた。路端のコンクリートの電柱に設置された「歓迎 田中幹事長」というタテカンが、はるか地平線の彼方まで延々と並んでいるではないか。

一行はやがて鳥取県の米子に着き、小休止となった。竹下の応援は地元の島根県から出たことでお役ご免となり、「歓迎 田中幹事長」のタテカンも、ようやくそこで切れていたのだった。

竹下登“してやったり”!

その小休止のとき、田中は竹下に尋ねた。「あのタテカンは君がつくったんだろう」と。竹下がニヤリ、「そうです」と答えると、田中が返した。

「(タテカンは)延々と続いておったが、いったい君は何万本つくったんだ。ワシのここでの遊説日程は、10日ほど前に決まったばかりだ。よく何万本もつくれたな」

竹下は「さすがの幹事長も、私の手品のタネは見破れませんでしたか」と言うと、してやったりの体で事実を明かしたのである。

じつは竹下がつくったタテカンは、1000本にも満たなかった。とりあえず、それを全部立てておく。しかし、1000本程度ではすぐ切れてしまう。そこで、竹下の知恵が出た。その切れる場所から少し前に、竹下は近郷近在の人を集めておいた。

そして「幹事長。だいぶ人が集まっているようですから、ここらで一つお願いします」とやったのだ。田中は「ヨッシャ」で止めた車の屋根に上がり、「やぁやぁ、みなさん、私が田中角栄であります」などと演説をブチ始めるのだった。

この隙に、である。竹下の後援会に所属する青年部の面々が、10台ほどのトラックに分乗し、通りすぎてきたタテカンを次々に回収、田中の演説が終わるまでに、それっとばかり、これから一行が走る先の電柱に並べていたのであった。田中の次の演説場所、その次の場所でも、同様にこれを繰り返し、田中としては「竹下はワシのために、いったい何万本のタテカンをつくったのか」となったのだった。

「この男は将来必ず自分のライバルになる」

このタネ明しを聞いた田中は、まずは破顔一笑してみせたものの、その後、別れしなに竹下の肩を叩いて「それでワシはコロッとだまされたということか」と、うつ向いてしまったという。このとき田中幹事長の同行取材をしていた政治部記者の、こんな〝感慨〟が残っている。

「田中は去っていく竹下の後ろ姿を、表情をこわばらせてにらみつけていた。田中としては、竹下が延々と切れ目のないタテカンを並べて歓迎してくれたことには、その気配りに感謝、同時に脱帽の気持ちを持ったようだ。しかし、田中も気配りで手を抜く人物ではなかったが、あのこわばった表情からは、竹下はここまで相手の気持ちを忖度する人物なのかと、ある種の脅威を感じたように見えた。この男は、近い将来、必ず自分のライバルになるだろうと」

この「タテカン事件」から7年後、田中は福田赳夫との凄絶な「角福戦争」を制して天下を取った。しかし、月刊誌『文藝春秋』に自らの金脈、女性問題を暴露され、「今太閤」誕生と熱狂された政権も、わずか2年で投げ出さざるを得なかった。その後、間もなくロッキード事件が表面化し、それまで表向きは「蜜月」と見えた田中と竹下の関係も、このあたりから一気に距離を置くことになる。

竹下は『政治とは何か』(講談社刊)と題した回顧録の中で、次のように語っている。

「竹下は俺を追い出して世代交代をやるつもりか!」

「角さんとの関係は、それまではまことにいい関係だった。角さんとしてみれば、私のことを何をやらせても便利ということだったんでしょう。足を縛るということは、まったくなかったですからね。

ところが、(ロッキード事件の表面化あたりで)政界では安倍晋太郎、宮澤喜一ら、財界からソニーの盛田昭夫、サントリーの佐治敬三など、50代のバリバリした人たちで勉強会をつくった。私も、人集めの中心メンバーだった。角さんはこのあたりで、竹下は俺を追い出して世代交代をやるつもりかと、不快感を持ったように思われる。

それからですね。『県会議員上がりで総理大臣になった例はない』と発言するなど、角さんのこれみよがしの私への牽制が始まったのは」(要約)

田中は自分に匹敵する人心収攬の術、すなわち抜群の「人たらし術」を発揮して、政治権力に厚みをつけていく竹下に、すさまじい敵愾心の炎を燃やし続けた。

最後は、竹下の天下取りの動きに心身ともに疲れ果てた。田中は、脳の血管をブチ切らせて倒れ、政治生命を失うことになる。まさに、政治権力をめぐっての「宿命の二人」と言えたのである。

その田中の竹下への思いの底にあったのは、どうやら「近親憎悪」の四文字ということであった。天才二人の秘術を尽くした「人たらし比べ」は、以下、次号から――。

(本文中敬称略/Part2に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。