(画像)Maxisport/Shutterstock
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北島康介「チョー気持ちいい」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第67回

今年7月に福岡県で開催された『世界水泳選手権2023』で、日本競泳陣の獲得したメダルは銅2つだけ。かつてアテネ五輪と北京五輪で2大会連続2冠の偉業を達成したレジェンド、北島康介のような選手の再来が待ち望まれる。


2021年の東京五輪が開幕する直前、とある雑誌で行われた「夏季五輪の記憶に残る名言」のアンケートで堂々1位に輝いたのは、04年のアテネ五輪で北島康介が発した「チョー気持ちいい」であった。


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競泳の男子100メートル平泳ぎで優勝を果たした北島は、プールの中で大きくガッツポーズ、水面を叩いて喜びを爆発させた。直後のインタビューで「金メダルおめでとうございます」と声をかけられると、いくらか声を震わせながら「ありがとうございます」と答え、しばらく沈黙した後に「気持ちいい。チョー気持ちいい」と絶叫した。


その後、北島は200メートル平泳ぎでも金メダルを獲得して2冠達成。この大会の直前には1つ年上のライバル、ブレンダン・ハンセンがアメリカの代表選考会において、100メートル、200メートル平泳ぎで北島の持つ世界記録を更新していた。五輪優勝予想の前評判は北島とハンセンでほぼ互角であり、そんな中での優勝はひときわ感慨深いものだったに違いない。


五輪における競泳男子の金メダルは、1988年ソウル五輪の鈴木大地(100メートル背泳ぎ)以来4大会ぶり。2冠達成は日本競泳史上初の快挙で、「チョー気持ちいい」は同年の『新語・流行語大賞』で年間大賞にも選ばれている。

夏季五輪を代表する名言を連発

それから4年後、08年の北京五輪に出場した北島は、レースの前から「世界記録を出して金メダルを獲得する」と宣言していた。そして本番では当時、話題となっていた新型水着の『レーザー・レーサー』を使用して100メートル、200メートル平泳ぎで優勝。特に100メートルは人類史上初の58秒台での世界新記録で、2大会連続の2種目連覇という偉業を達成している。

五輪前の同年5月まで、北島は通常タイプの水着を使っていたが、日本競泳界のエースに金メダルを期待する多くのスポーツメディアは、世界中で驚異的な記録を出し続けている新型水着に関する質問ばかりをぶつけてくる。このような状況に対して北島は、「もっと違った形で水泳に注目してほしい」と珍しく不快感を示していた。


しかし、五輪直前に『レーザー・レーサー』を試したところ明らかにタイムが異なるため、結局、本番ではこの新型水着の使用を決断することになった。水着問題で揺れながらの優勝に、何かしら複雑な思いもあったのだろうか。100メートル優勝後のインタビューではタオルに顔をうずめ、涙声で「なんも言えねえ」と絞り出すのが精いっぱいだった。


そして、この言葉も同年の『新語・流行語大賞』にノミネートされたが、後年のインタビューで「このとき、お世話になった方々への感謝を口にしようとしていたが、こみ上げてくる思いで言葉が出なかった」とコメントしている。


北京五輪からおよそ2カ月後、体育の日にちなんでオリコンが実施した「好きなスポーツ選手」のアンケートで、北島はこの頃トップが定位置だった大リーグ・イチローを押さえて、堂々の1位に輝いている。

計画的な練習を積み五輪に挑む

30歳の誕生日を直後に控えた12年のロンドン五輪では、さすがに北島も全盛期を過ぎたのか、個人種目でメダルを逃していた。それでも400メートルメドレーリレーでは、オーストラリアとのデッドヒートを制して銀メダルを獲得し、日本競泳史上初の五輪3大会連続メダルの快挙を成し遂げた。

レース直後のインタビューでは主将を務めたバタフライの松田丈志が、「(他のメンバー)3人で『康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかないぞ』と話していました」と興奮気味に語り、北島はこれを受けて「今回は一人一人が自信を持ち、やるべきことをやった、本当にいいチームだった」と話している。


このときの日本チームは自由形のエキスパートが不在で(本来の代表候補が、五輪派遣標準記録を突破できなかったため)、バタフライ併用の藤井拓郎が自由形でアンカーを務めるような状況にあった。そんな万全と言えないチームが銀メダルを獲得できたのは、やはり松田の言葉通り「北島にメダルを獲らせたい」という後輩たちの強い気持ちがあってこそだったろう。


なお、北島の五輪出場はロンドンが4回目。初出場は00年のシドニー五輪で、当時は高校3年生だったが、100メートル平泳ぎで4位入賞を果たしている。


高校生で五輪出場となれば、それだけで「夢をかなえた」と満足する選手も多いだろう。ところが北島は、このときすでに「08年くらいまで現役を続けて、絶対にメダルを獲るから」と話していたという。


日頃の厳しい練習を考えるとついつい弱音を吐いてしまうアスリートも多い中、若き日の北島はその後の8年間すべてを水泳につぎ込む決意をしていたのだ。


「チョー気持ちいい」「なんも言えねえ」などのセリフから、北島を感情的な人間だとみる向きも多いかもしれない。だが、周囲の関係者たちは「五輪に向けての4年間のサイクルをしっかり逆算し、自らを客観視して年齢や実力の程度も考慮しながら、計画的な練習を積み重ねていた」と評価している。


16年4月に開催された日本選手権兼リオデジャネイロ五輪の代表選考会では、結果が振るわず5大会連続の五輪出場を逃した北島。レース後には潔く「(真剣勝負は)これが最後。この興奮を二度と味わうことはない」と引退を表明した。


北島は現在、東京都水泳協会の会長や日本初のプロ競泳チーム『東京フロッグキングス』のGMなどを務め、後進の育成に励んでいる。ちなみにフロッグキングとは、北京五輪での活躍を称賛して中国メディアがつけた呼び名「蛙王」に由来する。 《文・脇本深八》
北島康介 PROFILE●1982年9月22日、東京都荒川区生まれ。5歳の頃から水泳を始め、平泳ぎの選手として高校3年生で2000年のシドニー五輪に出場。04年のアテネ五輪、08年の北京五輪では、共に100メートル、200メートル平泳ぎで金メダルを獲得する。