昭和のパ・リーグを代表する名投手の一人で、長年にわたりライオンズのエースとして活躍した東尾修。切れ味鋭いシュートやスライダーを駆使し、打者の内角を厳しく攻める強気の投球術で、プロ野球歴代10位の通算251勝を挙げている。
西武vsロッテの公式戦で東尾修から頭部に死球を受けた落合博満が、次の打席でピッチャーライナーを狙い打ちして報復した――そんな昭和プロ野球の伝説を見たり聞いたりした覚えのある人も多いだろう。
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しかし、事実は異なる。時系列で振り返るとピッチャーライナーは1982年6月21日、頭部死球は同年7月7日の出来事。誤った認識が広まった理由は、後年のテレビ番組が前後を逆にして放送したためである。
最近になって2人は落合のYouTubeチャンネルで対談しているが、東尾は「今日の今日まで、本当だと思ってた」と、テレビのイメージが刷り込まれていたことを告白している。しかし、落合のピッチャー返しが先だとすると、これに対して東尾が死球で報復したのではないかという疑問も浮かんでくるが、真偽の程は本人に聞いてみなければ分からない。
このときの死球で病院送りとなった落合が「頭を意識して狙ったようなボールだった」と話すと、一方の東尾は「スライダーがすっぽ抜けた。頭にぶつけたのは悪いが、落合はボックスの白線ギリギリに立ってきた。ならばボールが半個か1個ずれても、当たる覚悟を持つべきだ」と強気の姿勢を貫いている。
20敗も2回経験している…
東尾は現役時代から「故意に(死球を)当てたことは1回もない」と繰り返しているが(味方がやられたときの報復死球を除く)、通算165与死球はプロ野球歴代1位。ぶつけた後も決して悪びれない態度から〝ケンカ投法〟と称された。
和歌山県の箕島高校でエースとして春の選抜ベスト4と活躍した東尾は、68年ドラフトで西鉄ライオンズから1位指名を受けたが、早々に先輩たちとの力の差を実感し、野手転向を申し出たこともあったという。
ところが、69年に発覚した黒い霧事件(プロ野球関係者が八百長に関与したとされる事件、および疑惑)によって、西鉄は主力投手が軒並み永久追放となってしまう。突然の投手不足により、まだ力不足ながらも一軍で登板せざるを得なくなったことは、結果として東尾には幸いだった。
実戦の中で経験を積んだ東尾は、75年に23勝15敗7セーブの好成績で最多勝のタイトルを獲得。西鉄から太平洋クラブに身売りされ、Bクラスの常連だった弱小球団にあって、54試合に登板して8つの勝ち越しは数字以上の価値があった。
その投球スタイルの軸となったのは内外高低の投げ分けで、切れ味鋭いシュートとスライダーで打者を揺さぶった。このときに内角球が甘くなれば痛打を浴びる危険が高まるため、相手が強打者であるほど厳しく攻めることになり、これが死球へとつながった。
東尾は「自分にとっての誇りは、登板数の多さと被本塁打の多さ、そして20敗も2回経験していることかな」とも語っており、これはつまり〝本塁打を恐れず強打者と対峙し、長年にわたってプロとして生きてきた〟という意味である。
「僕だって本当はストレートで、格好良く真っ向勝負をしたかった。しかしプロで生き残るためには、ああいうスタイルでなければいけなかった」
デービスvs東尾 衝撃の大乱闘劇
基本的にはコントロールの良い投手でありながら、勝負どころでは厳しく内角を攻めるため、自ずと死球が増える。東尾からすれば、プロとしてのやむを得ない選択だったが、相手からは時にこれが故意死球に見えてしまう。
86年6月13日の近鉄vs西武、6回表のリチャード・デービスの打席。東尾の投じたシュートが右ひじに当たると、これに激高したデービスはマウンドに向かって疾走し、渾身の右ストレートを放つ。なんとかパンチをかわした東尾だったが、デービスは追撃の手を止めず、両軍入り乱れての乱闘事件となった。
その後、東尾は「ここで降りたら格好悪い」と顔や足首を負傷しながらも続投し、この試合で完投勝利を挙げている。一方、退場処分となったデービスは「コントロールのいい投手が、ああいうところに投げるのは故意としか考えられない。狙って当てたんだ」と怒りを隠さなかった。
一方的に暴行を加え、球史に残る大乱闘劇を引き起こしたデービスが、退団などの厳しい処分を受けなかった背景には、日頃から東尾のケンカ投法を良く思わない関係者が多かったこともあっただろう。
当時、日本ハムの監督だった高田繁は「これまでやりたい放題だったから」と、むしろ東尾を批判するようなコメントを残している。逆に言えば東尾が、敵から憎まれるほどの名投手だったということであろう。
《文・脇本深八》
東尾修
PROFILE●1950年5月18日、和歌山県生まれ。箕島高から68年ドラフト1位で西鉄ライオンズ入団。以降、太平洋、クラウン、西武と球団名が変わっても、ライオンズ一筋でプレーした。引退後は西武の監督を務め、二度のリーグ優勝を果たす。
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