(画像)Melinda Nagy/Shutterstock
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松尾雄治「この日のために練習してきた。それをすべて出した。満足だ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第65回

9月からフランスで『ラグビーワールドカップ2023』が開催される。かつては外国勢と大きな実力差のあった日本代表だが、今では世界の檜舞台で戦えるようになった。その立役者の一人が「元祖ミスターラグビー」の松尾雄治だ。


熱心なラグビーファン以外の人たちからすると、現役時代の松尾雄治よりも、引退後にスポーツキャスターやタレントとしてテレビで活躍する姿のほうが印象深いかもしれない。


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同じ明治大学の先輩に当たるビートたけしとは特に関係が良く、たけしは松尾のことを「明治に入ったのに間違えて日大のグラウンドに行っちゃって、半年間、気づかないでそこで練習していたが、ようやく松尾が『ここは明治じゃない』と気がついて帰ってしまい、日大の人たちはガックリした」などと、たびたびネタにしている(松尾が間違って日大へ行ったことがあるのは確かなことらしい)。


松尾がメイン司会、たけしがコメンテーターを務めたスポーツ番組『スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜』(テレビ朝日系)がレギュラー放送されていたこともあった。1992年に松尾はポーカー賭博事件で逮捕されているが、その際にもたけしはさんざん松尾をいじりながら、同時に自身の事務所へ招き入れて復帰の後押しをしている。

日本ラグビーの未来を切り開く

テレビ画面に映る野性的な風貌からすると少々意外かもしれないが、グラウンドでの松尾は身長173センチの小兵であり、現役時代は俊敏さと華麗なステップワークを武器としていた。

ネコのように背中を丸めながら、変則的かつ柔らかなステップで相手を抜き去っていく。ゲームの流れの中で蹴り出すキックの正確さも際立っていて、楕円形のラグビーボールをまるで自由自在に操っているようだった。


社会人として新日鉄釜石に入ると、チームの司令塔であるスタンドオフのポジションを務め、日本選手権では7連覇を含む8回の優勝を達成。95年までは全国社会人大会の優勝チームと大学選手権の優勝チームが、毎年1月15日(当時の成人の日)に対戦しており、新成人が晴れ着姿で観戦する光景が、日本選手権の風物詩だった。


松尾は「ミスターラグビー」とまで称されたスター選手で、日本代表として24キャップを獲得(キャップ数は選手が国の代表に選出され、国際試合に出場した回数)しているが、決してスタンドプレーに走ることはなく、「一人一人が自分の仕事をきちっとこなすこと。この個人プレーの連携が真のチームプレー」と話している。


83年に日本代表としてウェールズ遠征した際には、地元クラブチームを相手に2勝1敗1分とまずまずの成績を挙げたほか、最大の目標だったウェールズ代表との試合でも、敗れたとはいえ24対29の大接戦を演じてみせた。試合直後、松尾は「この日のために練習してきた。それをすべて出した。満足だ」と語っている。


この10年前、73年に行われた同じウェールズ代表との試合では、14対62と惨敗。試合翌日の新聞には「日本吹っ飛ぶ」と書かれたほどで、その当時は海外の強豪との間に大きな力の差があった。いくらか健闘する場面があったとしても、最後は大量の得点差をつけられるのが常だったのだ。


だが、83年の試合では勝利への手応えを確実につかんだようで、松尾は「走って、走って、あんなに疲れた試合はないぐらいボールを回した」「日本はああいうラグビーをすべきというのを証明した試合」と、未来に向けた日本ラグビーの展望を語っている。

次世代の天才・平尾と頂上決戦

松尾の引退試合となった85年の日本選手権には、国立競技場に6万人を超えるラグビーファンが詰めかけ、試合中継以外にNHKのドキュメンタリー番組としても放送された。

新日鉄釜石と同志社大学が日本一を争う一戦は、松尾と平尾誠二という9歳違いの天才ラガーマン同士による最後の対決となったが、2人は先のウェールズ戦では共に戦い、新時代のスピーディーな日本ラグビーを披露した仲間でもあった。


ちなみに平尾は「松尾と平尾のどちらが上か?」との質問を受けた際、「松尾選手はほとんどの場合、両手でボールを持ってプレーするから自分より上だ」と話している。


いくらか先輩への忖度もあっただろうが、松尾が優秀であることには違いない。ボールを片手で持てばラン以外の選択肢はないが、両手で持てばパスやキックの可能性もあり、相手のディフェンスは迷わされることになる。ボールを片手で持つよりも走りづらくはなるが、それでも常にスピーディーなプレーを続けられることが松尾の強みであった。


結果、大学選手権3連覇を果たし、学生史上最強と呼ばれた同志社大学に、新日鉄釜石は31対17で勝利。空前の日本選手権7連覇を達成して、松尾は有終の美を飾った。


なお、松尾が引退した後の新日鉄釜石は一度も日本選手権に進出することはなく、代わって平尾が入社した神戸製鋼が、88年度から7連覇を遂げることになる。 《文・脇本深八》
松尾雄治 PROFILE●1954年1月20日、東京都生まれ。父親の影響で小学校時代からラグビーを始め、明治大学4年時には司令塔としてチームを日本一に導く。卒業後は新日鉄釜石の主力選手として活躍し、全国社会人大会、日本選手権7連覇の原動力となる。