木元ゆうこ(C)週刊実話Web
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女優・歌手/木元ゆうこインタビュー〜“不作の83年組”ライブ再びです〜

あの「お神セブン」が帰ってくる! 5年前、不作の83年組と言われたアイドル7人が集結。2日間限定のライブを行い大好評だったが、その7人が40周年を機に再集結。9月29、30日の2日間「不作と言われた私たち『お神セブン』再集結!」と題して東京銀座の『博品館劇場』で公演を行う。そのメンバーの1人、木元ゆうこを直撃。公演の見どころを中心に、自身の「死亡説」などアイドル時代〝後〟の話も深堀りする。


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――歌謡界では「花の82年組」に対して「不作の83年組」と言われ、アイドル誌の表紙を飾れないなどさまざまな不遇を味わったそうですが、そのメンバーで5年前にデビュー35周年のライブを行い大好評でした。今回の40周年ライブはどのようないきさつで決まったのでしょう?


木元 前回はゼロからのスタートで手作りだったので、準備に3〜4年はかかりました。終わって完全燃焼したというか、とても次のことなど考えられませんでした。でも、7人がそれぞれの場所で活動する中で「そろそろ40周年が来るなぁ」という気持ちはみんなの中にあったと思います。実は私たち、デビュー日と誕生日にはグループLINEで「おめでとう」のやりとりをするんです。日付が変わる瞬間を待って「私が一番乗り!」みたいな。38周年くらいになって「そろそろ40周年か。どうする?」という声が誰からともなく出てきました。私はまたやりたいと思っていたので、さりげなく意思表示したら、松本明子ちゃんが「やろうやろう」と言ってくれて、プロデューサー的な立場の森尾由美ちゃんが「みんなはどう? やりたい?」って。そこから具体的に進んだ感じですね。ただ、前回の経験があるので、最初に全員で集まったのは今年の2月。そこから各自の役割分担などバババーッと決めました。私の担当は、会場(博品館劇場)の日程を抑えることでした。


メンバーは大沢逸美、小林千絵、桑田靖子、徳丸純子、木元ゆうこ、森尾由美、松本明子の7人。公演のフライヤーの裏面には虹のデザインの上に7人の顔が左から順番に描かれている。実はこの順番にも意味があるのだという。

突如芸能界を引退し、死亡説まで…

木元 フライヤーの担当は明子ちゃんなのですが、「センターは誰にする?」という段階でみんなが譲り合うんです。なかなか決まらないので、デビュー月の順番にしようということになり、センターは純子ちゃんになりました。一事が万事で、誰も「私が私が」というところがないんですよね。誰か1人がつまらなかったり不公平と思わないよう、楽しんで進めていこうという気持ちが強いんだと思います。

――結束が固いんですね。


木元 それは色んな方から言われました。前回のライブを見に来てくれた82年組の早見優さんには「私たち、こんなに仲良くないよ」とか、今は政治家になられた生稲晃子さんは「おニャン子ではあり得ない」って。


――今回の公演の見どころはなんでしょうか?


木元 SNSの感想には「デビュー曲をしっかり聴きたかった」という声が多かったので、その要望には応えられると思います。あとは当時の私たちが好きだったJポップをたっぷりお聞かせできる予定です。あえて台本を作らず、ぶっつけ本番で、色とりどりな面白いトークが、たくさん飛び出すステージになると思います。


――木元さんは91年に突如芸能界を引退し、一時は死亡説が流れたこともあるそうですね?


木元 そもそものデビューのきっかけが、母が大ファンだった沢田研二さん率いる『ザ・タイガース』の日本武道館コンサートでした。私、中2の頃から不登校でやさぐれていた時代があったんです。卒業が近くなり、母がコンサートに連れ出してくれたのですが、あまり興味がなくてロビーの椅子に座っていたところ、ポリドールレコードの関係者の方に声をかけられたんです。ちょうど30周年記念の新人を探していたそうで、名刺をもらい、後日スタジオで歌いました。渡辺真知子さんの『迷い道』。それでデビューが決まったんです。


――デビュー曲は作詞が阿木燿子さんで作曲が〝スタ誕〟の審査員でもあった中村泰士さんというゴールデンコンビ。でも…。


木元 オリコン最高位が124位。続くセカンドシングルも不調で、大型新人として大々的にPRしていただいたのに、申し訳なくて。18歳で樹本由布子に改名して、コロンビアレコードからサードシングルをリリース、大胆なグラビアにも挑戦しました。映画『ブレイクタウン物語』やテレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)など人気シリーズにも出させていただきましたが、いろいろと模索したつもりがかえって将来が見えなくなってしまい気持ちが疲れて引退を決めたんです。24歳でした。 47歳で芸能界復帰の理由

――その後の行動が大胆。2年8カ月もの間、世界を放浪するバックパッカーになったそうですね。


木元 最初はバンコクでした。日本で知り合ったタイ料理店で働く女の子に「今度遊びにおいでよ」と言われていたのを思い出して、英語もしゃべれないのに身振り手振りで家を探し回り、ようやく着いたら彼女はまだ日本にいました(笑)。


――それで、どうしたんですか?


木元 他に行くあてもないので居候させてもらい、そこを拠点にしてアジアの各国を回りました。


――怖い思いをしたこともあるのでは?


木元 観光地を案内すると言われてついていったら襲われそうになったり、全財産とパスポートを盗難に遭ったこともあります。それがきっかけで、今の主人と出会うのですが…。


――そうなんですか?


木元 インドのニューデリーでパスポートの再発行をしてもらおうと日本大使館に通っていたときに、日本から来た主人とその友だちに出会い、ご飯を食べるなどしたんです。その後は別々に行動したのですが、彼は行く先々で私の実家にポストカードをたくさん送ってくれました。母は25枚も届いたそれを見て「変な人に引っかかったんじゃないの?」と心配していましたが、帰国した私がそのカードを見てピンときたんです。最初の文字が大きくなっていたので、来た順に並べてみると「25歳のお誕生日おめでとう…」みたいなメッセージになっていたんです。


――おお、ロマンチック!


木元 帰国してから何度か会うようになり、一緒にいるときに阪神淡路大震災で被災。命からがら彼の実家がある岡山にたどり着き、その頃から結婚を意識するようになった気がします。


――死亡説が流れたのはバックパック時代が長かったからですか?


木元 母親との連絡手段は各国の日本大使館宛てに送られてくる手紙だけでしたから。死亡説は後になってシアトル在住の徳丸純子ちゃんから聞いたんです。それが芸能界復帰のきっかけにもなるんですが…。


――29歳で結婚され、1男1女に恵まれた。復帰は47歳でしたね。


木元 あるとき純子ちゃんが中学時代の同級生のフェイスブックからたどり着いて電話をくれたんです。「行方不明で心配した」って。そこで私はバックパック時代のことや結婚して子供もいるという話をしました。そのことがきっかけでみんなに再会することができ、それぞれの輝く姿を見て、「私、やり残してるな」という思いが強くなりました。


――最後に他の6人を代表して40周年ライブへの意気込みを聞かせてください。


木元 今年も手作りでやりますが、来ていただいた方が元気になるようなライブに必ずします。ぜひ7人に会いに来てください!
◆きもとゆうこ 1967年1月5日生まれ。東京都出身。83年「チェリーガーデン(桜の園)」で歌手デビュー。復帰後はテレビドラマ、舞台、歌のステージなど、幅広く活動している。『お神セブン』ライブの直前、9月21日から24日まで博品館劇場にて舞台『ターニングポイント』(是枝正彦作・演出、相原愛主演)にも出演。連続して博品館劇場に登場する。