(画像)RAJU SONI/Shutterstock
(画像)RAJU SONI/Shutterstock

『性産業“裏”偉人伝』第20回/黄金町のアイドル娼婦~ノンフィクションライター・八木澤高明

私は今から20年ほど前にその様子を見て衝撃を覚え、色街を取材するきっかけとなった。毎週のように黄金町に足を運んでは、時には客として娼婦に近づき、時には取材者として話を聞き、彼女たちにカメラを向けた。


【関連】『性産業“裏”偉人伝』第19回/タイの色街ガイド~ノンフィクションライター・八木澤高明 ほか

外国人の娼婦たちを通じて、私は日本社会のことや日本と世界の繋がりについて学ばせてもらった。私にとって色街黄金町は、今日まで文章を生業としている原点の街でもある。


そんな思い出深い黄金町が忽然と消えたのは、今から18年ほど前の冬のことだった。警察の摘発により、一夜にして娼婦たちの姿はなくなった。摘発が新年に行われたこともあり、ちょんの間の入り口には、門松の絵などが虚しく残されていた。


黄金町で働いていた娼婦たちの多くは、逮捕され母国へ強制送還されたり、他の色街へと流れていったりした。一方で数は少ないが、日本人の男性と結婚した者もいた。


黄金町の一角に、誰がつけたのか知らないが、カタカナの「コ」の形をしていたことから「コの字」と呼ばれる場所があった。今もその路地は残っているが、当然ながら娼婦たちの姿はない。そこで体を売っていたのは、中国人の娼婦たちだった。

そのまま日本に残って…

戦後に色街として産声を上げた黄金町では、日本人から始まり、台湾人、タイ人、フィリピン人、コロンビア人、韓国人などの娼婦たちがやって来て、最後に現れたのが中国人の娼婦たちだった。彼女たちは、2000年前後に体を売り始めたと記憶している。

「コの字」で働いていた中国人娼婦たちの中に、かつてのアイドル、松浦亜弥に似ていることから、客から「あやや」と呼ばれていた娼婦がいた。彼女は留学生として来日し、学校に通う傍ら、売春していたのだった。


あややは黄金町の摘発があった当日、店を経営していたヤクザから「この日は危ないから」と言われ、出勤せずに難を逃れていた。その後、留学生のビザを持っていたことから、そのまま日本に残った。


働き場所がなくなり無収入になったため、客だった男のアパートに転がり込み、そのまま同棲を始め、その後、結婚。現在、小学校6年生になる子供がいる。


最近の様子について、あややに話を聞いた。現在の彼女は、中国に暮らす母親の体調がすぐれないため、世話をするために中国に帰国していた。


「コロナが流行りだしてからは、日本には年に数回ちょこっと戻るだけで、中国で暮らしています。母親がもう高齢なので、何があるか分からないですし、またコロナが流行ったりすると簡単に日本と行き来できないですから、こっちにいることにしたんです」


当時、黄金町で働いていた仲間はどうしているのだろうか。

「20分で1万円」が基本

「黄金町が潰れてから、友達はみんな中国に帰っちゃいました。最初の数年は上海で日本語学校の教師をしていたり、日本のラーメンが美味しかったからと日本の味でラーメン屋さんをやっていた人もいました。ただ、その後は彼女たちも結婚したりして、あんまり連絡を取っていないんです」

中国人娼婦たちは、しっかりと蓄財している者が多かったのだ。一方で、あややは貯金らしい貯金をしていなかったこともあり、日本人の男性を頼った。


「旦那がしっかり稼いでくれるんで、今は何も仕事をしていないんですよ。黄金町で働いていた当時、お金はすべて洋服を買ったりしてなくなっちゃったんです」


人気の娼婦として知られ、あややが出勤すれば、店の前には常に行列ができていた。彼女は1日にいくら稼いでいたのだろうか。


「1日なんて働いたことはないんですよ。だいたい、住んでいた新宿からヤクザが運転する車で黄金町に行って、夜中の12時まで5〜6時間働いていました。その間は休まないで男の人を相手にして、20万円は稼いでいたと思います」


当時の黄金町の料金は、「20分で1万円」が基本的な相場だった。彼女は15分単位で1人をこなし、日に20人は相手にしていた計算になる。


当時の黄金町で、20人を相手にしていた別の日本人娼婦に話を聞いたことがあったが、それほどの人数を相手にしていたのは、ほんのひと握りである。まさにあややは、黄金町を代表する〝アイドル娼婦〟だったわけだ。


あややは現在、中国と日本を行き来し、満足のいく人生を送っているようだった。彼女にとって、黄金町での日々はどんなものだったのか。


「お金をいっぱい稼げて、楽しい日々でしたね」


家族に仕送りをする外国人娼婦がほとんどだった黄金町で、違った働き方をしていたあやや。彼女の発言は、買春というものの幅の広さを教えてくれた。
八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 神奈川県横浜市出身。写真週刊誌勤務を経てフリーに。『マオキッズ毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回 小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を受賞。著書多数。