島田洋七 (C)週刊実話Web
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3回お会いして覚えてもらえなかった大原麗子~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

芸能界で直接話した中でも3本の指に入るほど、綺麗だったのが大原麗子さんでした。たけしが『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS系)という人気番組をやっていたでしょ。俺もレギュラーの1人として出演していたんです。


緑山スタジオ(神奈川県横浜市)での収録が終わると、毎回、たけしと飯を食いに行っていた。当時、たけしは時代劇にも出演していて、同じく緑山スタジオでの撮影にのぞんでいました。時代劇は撮影に時間がかかるから、いつもは家に戻り、あらためて夜にたけしと待ち合わせをしていたんです。


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でも、ある日、たけしから「洋七、今日は2時間で終わるから、ちょっと待っててくれ」と言われた。大掛かりなたけし城のセットの脇に建てられた楽屋で、たけし軍団としゃべりながら待っていた。すると、軍団の1人が「洋七師匠、殿はもう15分くらいで終わるそうです」。俺はたけしの楽屋近くで立っていると、通りかかったのが大原さん。綺麗な人やなと思ったら、「あんた誰?」とあの独特の声の調子で一言。全く嫌味な言い方ではないんですよ。「B&Bの島田洋七と申します」、「うーん」。


撮影を終えたたけしが来て、「着替えるから待っててくれ」。そこに大原さんも現れ、「たけしさん、お疲れ様でした」と挨拶。着替えたたけしが楽屋から出てくると「おー洋七、帰るぞ」。荷物を手に取り、車に向かおうとすると、またも大原さんから「あんた誰? たけしさんのお弟子さんなの?」、「島田洋七ですけど、弟子でもなんでもいいです」。そんなことが2回ほどありましたね。

ギャグじゃなくて…

緑山スタジオで「あんた誰?」と言われてから2週間後。たけしと俺は六本木にあったおしゃれなレストランバーへ食事に行った。店内に入ると、偶然、大原さんも女性3人でいらっしゃったんです。「おはようございます!」と大原さんに挨拶すると、「あんた誰? たけしさんのお弟子さんでもないし、マネジャーさんでもない。たけしさんの周りをウロウロして誰なの?」と独特なほんわかした声で言われましたね。

隣で聞いていたたけしはゲラゲラ笑いながら、「こいつは漫才師です」。大原さんは「お笑いの人なの。私、あんまりわからないのよね」。漫才ブームの頃は、レギュラー番組を十数本抱えていたんですけどね。でも、腹なんて立ちませんよ。


背広を着ていればマネジャーかテレビ局の人だと察しがついたんでしょうね。しかも、俺はたけしに対してタメ語ですから。弟子は「殿」と呼び、敬語でしょ。先輩でも大体「たけちゃん」と呼ぶ。タメ語なのは俺くらいだから、余計に大原さんは俺が誰なのか不思議に思ったんでしょうね。


後日、六本木の行きつけの寿司屋へたけしと入ろうとすると、「俺が先に入るから、洋七はここで待ってろ」。店の入り口を隔てただけだから、たけしと寿司屋の大将の会話が聞こえてくる。「大将。今日は特別ゲストの芸能人を連れてきたよ。入ってきてもビックリしないでね」。たけしが扉を開けると「どうぞ! あんた誰さんでーす」。


事の成り行きを知らない大将はポカーンとして「なんですかそれ?」、「こいつは大原麗子さんに3回会って、5回も『あんた誰?』って言われたの」。大将は「それはギャグじゃないですか?」、「いや、ギャグじゃなくて本当に知らなかったみたい」。


それから1カ月ほどは、たけしは俺のことを「あんた誰」と呼んでいましたね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。