(画像)Victor Velter/Shutterstock
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野村忠宏「柔道は、技の美しさを競う競技じゃない。大事なのはルールの中で勝つこと」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第60回

近頃はテレビ番組のコメンテーターとしても活躍し、好評を博している柔道家の野村忠宏。豪快な「メダル噛み」の印象も強いが、アトランタ、シドニー、アテネ五輪と前人未到の3連覇を成し遂げた歴史に残るアスリートである。


2021年に開催された東京五輪で、同日(7月25日)に金メダルを獲得した一二三と詩の阿部兄妹。いずれもが五輪もしくは世界選手権で、金メダルを獲得している佳央、行成、兼三の中村三兄弟。


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いわゆる柔道一家は数あれど、野村忠宏もまた、祖父から実兄まで三代にわたる柔道指導者で、叔父に1972年ミュンヘン五輪の金メダリスト、野村豊和がいる特別な環境で育った。


96年アトランタ、00年シドニー、04年アテネの五輪3連覇にも、そうした影響は当然あっただろう。野村自身も常日頃から「周囲の支えがあってここまで成長でき、今なお競技を続けることができています」などと謙虚に語っていた。


一方で、表彰台で金メダルを噛む姿も印象深い。ちなみに、野村のことを日本人選手の「メダル噛み第1号」だと思っている人は多いようだが、実は同じアトランタ五輪で金メダルを獲得した前出の中村兼三が最初であり、野村はこれを真似たものだった。


このとき野村は天理大学在学中の22歳。まだ世間的な知名度は低く、同日にはYAWARAちゃんこと田村亮子(谷亮子)が銀メダルに終わったことから、スポーツニュースのトップはすべて埋め尽くされていた。それでも「メダル噛み」のインパクトによって、野村の名も徐々に知られるようになっていった。

対戦相手の研究より自分を磨く

現役引退後にテレビ番組などで見かける言動から、野村のことを明るく陽気なキャラクターと考える人は多いだろう。

シドニー五輪で連覇を果たしたときには、「2つ目だから愛人みたいなものです」とも話している。最初のアトランタで獲得した金メダルが「正妻」なら、今度のメダルは「2号さん」という意味だが、こういったジョークを放つアスリート自体がまだ少なかった時代に、野村のことを「面白キャラ」と受け止める人が多いのは当然だった。


だが、本人は自分の性格を「ビビり」だと分析し、そして「ビビりだからこそ勝つために徹底した準備をします」と語っていた。一風変わっているのは、対戦相手の研究をほとんどしなかったことだ。


「対戦相手のことを知りすぎると、相手を過剰に意識して、自分の柔道ができなくなってしまう懸念がある。それなら、相手を知ることより、自分の柔道を磨くことに神経を集中したほうがよいと思うのです」


意外にもゲン担ぎにこだわった。柔道着に着替えるまでは「勝利の願掛けパンツ」ということで、必ず前夜から青いトランクス、もしくはボクサーパンツをはいていたという(試合中は男子柔道の伝統に則って、ノーパン全裸だった)。神社などでの神頼みも欠かさなかったようだ。


もちろんそれだけでなく、日々の稽古においても野村は昔ながらの根性主義とは異なり、「勝つために何をすべきか」を追求した。


稽古の短さを指摘されることもあったが、「練習が好きでなくても、練習時間が他の選手に比べて短くても、誰よりも強くなるための努力を積んでいる」と公言し、2学年上の篠原信一は野村について、「他の人が1時間集中できるとしたら、野村は40分しかもたない。だが、その40分で全部を出し切ることができる」と評している。

「天才肌」の裏に隠れた「柔道愛」

高校までは生来の小柄な体格もあって、決して目立つ存在でなかった野村だが、集中力を磨いたことで飛躍を遂げることができた。

「柔道は、技の美しさを競う競技じゃない。大事なのはルールの中で勝つこと」と言ってはばからず、こうした考えについても、日本柔道の伝統に反すると感じる向きもあっただろう。


だが、野村の現役時代は日本柔道に不利なルール改変が頻発していた時期でもあり、そんな中でのやむを得ない判断だった。


五輪を2連覇した後に約2年の休養を挟んだのも異例のことで、こうしたことから野村を「天才肌」と評する人も多い。しかし、その裏には強烈な柔道への愛着があった。


「(休養は)人生で初めて経験する、とても優しい時間でした。最初は本当に楽しかった。ただ、楽しいだけの毎日は飽きるんですね」


「徐々に、戦う選手たちの活躍がうらやましく思えてきたんです」


野村は再起したアテネ五輪で3連覇を達成すると、それにとどまらず北京、ロンドン五輪への出場も目指した。度重なる故障もあって出場はかなわなかったが、年齢を重ね、体がボロボロになっても、なお五輪を目指し続けたことが「柔道LOVE」の証しだ。


野村は15年、リオ五輪を目指す途中で引退を発表。引退会見では「長い人生を振り返ったときに、弱かった時代のほうが長かった。もしかしたら才能はあったのかもしれないが、開花するまでの長い時間を諦めなかった信じる力や、思いを伴った努力は本物だと思う。信じられたからこそ、今がある」と語った。


伝統的な競技と現代スポーツに通じる合理性を兼ね備えた野村の活躍は、近年における日本柔道の隆盛にも多大な影響を与えたのではなかろうか。 《文・脇本深八》
野村忠宏 PROFILE●1974年12月10日生まれ。奈良県出身。天理大学卒。アトランタ、シドニー、アテネ五輪で柔道史上初、またアジア人初となる五輪3連覇を達成(60㎏級)。2015年に40歳で引退した後は、国内外にて柔道の普及活動を展開している。