(画像)mTaira/Shutterstock
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「邪馬台国」終わらない論争に終止符が打たれる!? 〜古代史最大の謎最新研究〜

佐賀県の吉野ヶ里遺跡にある「謎のエリア」から新たに石棺墓が発掘されたことで、邪馬台国をめぐる論争が再びヒートアップしている。古くから畿内説と九州説が有力視されている所在地についても、いまだ真相解明に至る決定打がない古代史妻帯のミステリー。論争の概略と最新の研究結果をご紹介!


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今年4月下旬、佐賀県の吉野ヶ里遺跡にある未調査区域から新たに見つかった石棺墓は、その表面に刻まれた文様や規模の大きさから、「邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないか?」との期待が高まった。


6月14日、佐賀県は石棺墓の発掘調査を終え、内部にあったのは流れ込んだ泥土のみで、人骨や副葬品などは見つからなかったと発表。石棺墓の広範囲に赤色顔料が塗られていたことから、弥生時代後期の有力者の墓であることは確かなようだが、これが邪馬台国や卑弥呼のものだとする決定的な証拠が発見されることはなかった。


「邪馬台国はいったいどこにあったのか?」という謎解きが国民的ブームとなったのは、1970年代後半のこと。以後、50年近くにわたってさまざまな論考がなされてきたが、今も明確な結論には至っていない。


大きくは畿内説と九州説に分かれるが、今や推定地は全国各地に50カ所以上も存在し、「そもそも邪馬台国自体が架空のものではないか?」とする説もある。卑弥呼が本当に偉大な女王であったなら、それを祀った史跡や神社が残っているはずだが、現存していないのは架空の人物だったからに違いないというのだ。


実際、邪馬台国について記述した唯一の史料は、中国の歴史書『三国志』における「魏志倭人伝」だが、これは伝聞を基にして書かれたものであり、必ずしも正確なものとは言えない。当時の国名や距離(里数)の記述も曖昧なため、そのせいで今もプロ、アマの研究者から次々と新説が生まれている。

百花繚乱の「邪馬台国論争」

畿内説と九州説の争点となっているのが、邪馬台国へ至る道のりを記した中の「水行十日、陸行一月」のくだりである。

帯方郡(古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡)から邪馬台国までを記述通りに進んでいくと、まず九州にたどり着くことは確かなのだが、そこから船で10日(水行十日)、歩いて1カ月(陸行一月)も進めば、九州からはかなり離れてしまう。


一方、畿内説では「それくらい距離が離れていて、当時、栄えていた場所となると近畿地方しかない」というのが論拠となる。


中でも邪馬台国の有力な候補地とされるのは、奈良県の纏向遺跡である。これまで発見された3世紀ごろの遺跡では国内最大級の規模であり、弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示すとされる。広大な同遺跡の中には、国内最初期の前方後円墳と考えられる箸墓古墳が存在し、これを卑弥呼の墓だとする考古学者もいる。


だが、この説には大きな弱点がある。日本書紀によると、纏向遺跡には垂仁天皇や景行天皇の王宮があったとされ、箸墓古墳も宮内庁により「第7代孝霊天皇の皇女の墓」に治定されているのだ。また、同古墳は全長278メートルの前方後円墳だが、魏志倭人伝の記述による卑弥呼の墓は全長100メートル程度の円墳と推察され、それと比べて大きすぎる。


纏向遺跡を邪馬台国の中心地に比定する説は、あくまでも「当時の日本最大級の都市だから」という仮定が先に立ったものであり、学術的な裏付けが乏しいとも思える。畿内説の候補地としては、ほかに「琵琶湖畔」「大阪府」なども挙げられるが、いずれも決定的な証拠は見つかっていない。


九州説については、どうしても「水行十日、陸行一月」の記述がネックになる。だが、魏志倭人伝における距離の単位としては基本的に「里」が用いられていて、そうすると「十日」というのは距離ではなく「経過した時間」と考えることもできる。


例えば水行といっても小舟で川をさかのぼっていくのであれば、海上を進むよりも時間がかかる。陸行にしても中国からの使者が邪馬台国まで向かう際、途中の村々で歓待を受けて数日間にわたり宿泊するようなことがあったかもしれない。


難所を越えるために長時間かかった可能性もあるだろう。「水行十日」といっても、実際にはさほど遠い距離ではなかったかもしれず、そうすると邪馬台国が九州にあったとしても不思議ではない。


九州説を採用した場合、邪馬台国の候補地とされるのは九州北部をはじめ広域に及び、福岡県の太宰府や御井郡、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群、熊本県の球磨郡、そして前述した佐賀県の吉野ヶ里遺跡など諸説ある。


そんな中でも江戸時代から有力視されてきたのが、筑後平野にある福岡県みやま市周辺だ。同地域の旧名は「山門郡」で、これは邪馬台国の読みに酷似しており、古代の宝飾品や祭祀用具なども多数出土している。東部にある「女山」の中腹に置かれた「神籠石」は卑弥呼の居所を示し、近くの権現塚古墳に葬られたのではないかという。


なお、権現塚古墳については、いまだに本格的な調査が行われていないが、外濠を含めた直径が約150メートルの円墳で、まさにこれは魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓に近い形状である。


九州説を否定する意見としては「水行十日、陸行一月」の件に加えて、「当時、中国と関係を持つような大国が、九州の地方都市にあったとは考え難い」ということがある。

卑弥呼と皆既日食の関係性

畿内の大和と九州の山門が、どちらの読みも「やまと」であることから、「もともと九州にあった邪馬台国が畿内へ遷都した」という推察もある。日本書紀や古事記に書かれた神武天皇の東征が、遷都を意味しているというのだ。

さらに、ここから派生して卑弥呼が天照大神だとする説もある。卑弥呼とはもともと中国側の当て字で、本来は「日巫女」であったと考えられ、日巫女と太陽神の天照大神は確かに符合するのだ。


魏志倭人伝では、卑弥呼の没年が西暦247年ごろとされているが、ちょうど同時期に日本で皆既日食が起きており、卑弥呼の死と日食の逸話が後年に一体化して、「天の岩戸神話」になったとする説もある。


しかし、これらの仮説を検証すると、いろいろな矛盾が生じてくる。


例えば、この皆既日食は北陸や東北でしか観測されておらず、そうすると畿内や九州で神話化されるほどの大事件だったとは思えない。また、時系列的なズレも多々確認されている。


そもそも日本書紀や古事記は、過去からの言い伝えや全国に残る古史古伝を集めて体系化したもので、整合性を持たないことはやむを得ないのだが、ほかにも決定的な問題がある。


魏志倭人伝には「邪馬台国の男子は顔や体に入れ墨をしている」との記述があるが、畿内にはその風習がないのだ。一方で、九州北西部の遺跡から発掘される土器には、顔に入れ墨をしたものが数多く発見されている。


しかし、同じ九州でも神武東征の出発点を現在の宮崎県とした場合、この周辺から入れ墨を表す遺物はほとんど見つかっていない。これは阿蘇山を境にして、九州に別々の文化圏が存在していたとも考えられる。


また、すべての疑問を解決するのが、「邪馬台国と大和国は同時期に並列して存在していた」とする大胆な仮説だ。つまり、中国と交流を持っていたのは九州北西部の邪馬台国だったが、それとは別に畿内を中心とした大和国が、古代国家として成立していたという考えである。


邪馬台国と大和国が別々の国であったなら、日本書紀や古事記に、邪馬台国や卑弥呼に関する記述がないことにも説明がつく。


現時点ではまだ畿内にも九州にも、邪馬台国につながる決定的な証拠は見つかっていないが、今後の科学的調査の進展によって、真相が完全解明される日が訪れるに違いない。