おいでやす小田(C)週刊実話 
おいでやす小田(C)週刊実話 

インタビュー・芸人おいでやす小田〜大声ツッコミ芸の“誕生秘話”とは〜

喉が壊れるほどの大声で「なんでやねん!」「どこがやねん!」とツッコミまくるピン芸人、おいでやす小田さん。デビュー23年目で、今やバラエティー番組にドラマにと大活躍中だが、不遇の時代は長く、数々の場面ですべり倒してきたという。共演者すら驚かせる大声ツッコミ芸人は、いかにして花開いたのか?


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バラエティー番組にドラマにと活躍の場を広げている注目のピン芸人・おいでやす小田さん。本インタビューも、さぞかしキレ散らかされるかと覚悟したが…。


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おいでやす小田(以下、小田)「ツッコミが僕の心の叫びと思われたら、それはまったくの誤解ですよ。何かに大声でツッコむというお仕事は、それはそれで今もあるんですけど、『なんか腹立つことないですか?』みたいに振られる仕事は減ってきました。普段の僕は、穏やかっていうわけじゃないですけど短気な人間ではないし、どっちかいったら世の中に腹立つことも不満もないんです。ネタを考えてるときは、実は逆に僕が怒られてる側のときもありますからね。僕自身、キレることはまあないですよ」


それにしても、理不尽なシチュエーションのキレ芸は彼の鉄板ネタである。そんな穏やかな芸人が、どうやってあのネタにたどり着いたのだろうか。


小田「最初は漫才師になりたくていろいろやってたんですが、まあほんとに結果が出なくて。地下ライブ、いうたらインディーズライブに出てると、だいたい3〜4年目で見切りつけるのが普通で、受からへんのに7年も8年もやってるのって珍しいですよ。


ほんで、もうそろそろホンマにヤバいぞと。2人やと相方のせいにしたり、同じ境遇に一緒にいると安心してしまうし。ほんで言い訳もくそもない、一人でやるしかないなってなったんですよ。とにかく一人でやって、『ああ才能なかったな』で納得してやめるのもいいと思ってピン芸人になったんです」

大声ツッコミ芸、誕生秘話

こうしてピン芸人・おいでやす小田が誕生したのは2008年ごろのこと。それでいきなりブレークへ…とはいかなかった。ピン芸人最強の座を争う『R-1ぐらんぷり』決勝常連となるまで、不遇の時代はさらに8年。ピン芸人になりたての頃のネタは強制消去されたのか、あまり覚えていないというが、その一つが『ジョジョの奇妙な冒険』の空条承太郎とそのスタンドによる漫談だという。それはそれで面白そうだが、若い女性ばかりのオーディション会場ではまるでウケなかった。スベリ倒すつらい日々がしばし続いた。

小田「バカリズムさんとか陣内智則さんとか劇団ひとりさんたちの芸を研究して、そのネタをなぞるわけじゃないですけど、それをスタンダードとして広げていかないとピン芸は成立しないと勝手に思ってたんです。でも、全然うまいこといかなかった。それで僕の中にあるネタは作品で神聖なものという考えはしばし置いて、だからこれはネタと呼べるものじゃないかもしれへんけど、普段自分がイジられたり楽屋でやられてるようなことをそのまま舞台上でやったろうと思ったんです。それがきっかけです」


怒涛の大声ツッコミ芸はこうして誕生した。それでも賞レースで彼の名が認知されるまでには今しばらくの時間を要する。というのも、彼の世代(NSC大阪23期)は実力派ピン芸人の宝庫だったのである。


小田「これは僕の推測ですけど、上の世代が通称〝花の22期〟ですごい人ばっかりだったんで(編注:ダイアン、スーパーマラドーナ、キングコングほか)、それで僕らの世代のコンビが劇場の出番をもらえずに解散して、やむなくピン芸人になる流れがあったんちゃうかなと思います。僕もそうですし、ムーディ勝山、とにかく明るい安村とか。ただ、友近さんとか三浦マイルドのように、最初からピンの人はちょっと別次元ですね。あの人たちは規格外で特殊なんやと思います。


考えたら、ヘンな人がピン芸人になんのか、ピン芸人になったからヘンな人になんのか、その境目が分かんないんですよ。僕の場合はピン芸人になってからヘンになったんです。その立場から言わしてもらうと、大概の人はそうかもしれないです。ピン芸やりだしてから会話も下手になったし。そりゃそうですよね。一人の時間が増えて、世間からどんどん離れていくじゃないですか。情報も偏るし。僕は20代の頃は社交的な普通の人間やったんですよ、ホンマに」


ピン芸人としての孤独な戦い。その先を走っていたのが同期の三浦マイルドさんだ。13年のR-1ぐらんぷりで、おいでやす小田さんが準決勝で敗退する一方、三浦マイルドさんは見事優勝を果たした。親友のピン芸人の晴れ舞台に、自身が得たものも多かろうと美談を期待したところが…。


小田「ああ! あのときはキタなァー! 本気で芸人やめそうになりましたね。親友って仲が良くなったり悪くなったりするじゃないですか。マイルドとは今が一番仲いいときかもしれませんけど、そのときは最悪に仲悪かったんですよ。ホンマに優勝してほしくなかったんで、優勝した瞬間、絶望しましたね。準優勝がヒューマン中村やったんですけど、ヒューマンにも優勝してほしくなかった(笑)。だから決勝の時点で、もう地獄でしたね。その後、ヒューマンの単独公演に行ったら、満席のお客さんがR-1のときのマイルドとの2ショット写真を見てワーッと沸くわけですよ。その帰り道に、ホンマにやめようかと思いましたね」


浮上のきっかけを掴めずにくすぶっていたおいでやす小田さんを救ったのは、やはりR-1ぐらんぷりだった。16年大会で初めて決勝に進出すると、そこから20年大会まで、5回連続でファイナリストに選ばれたのだ。優勝こそ逃したものの、華麗なるキレ芸で見事爪痕を残し、知名度は恐ろしく上がった。

〝神様〟の酒席の誘いを断る

小田「僕は劇場メンバーでもなかったので、先輩方にもR-1で初めて僕を知ってもらったと思います。面白いと言ってくれる先輩も多くて。中には笑福亭鶴瓶さんや藤山直美さんら、そんな超一流の人たちが言ってくれてるんだから、自分には何かあるんじゃないかと思えて、本当に支えられましたよ。

僕は芸歴23年になりますが、中でも一番嬉しかったのが、16年のR-1放送後の『ワイドナショー』(フジテレビ系)で松本人志さんが、ネタはおいでやすが一番面白かったと言ってくれたこと。これはもう、ケタ違いに嬉しかった。賞レース決勝が決まろうが、『M-1グランプリ』で準優勝しようが、たとえ優勝できたとしても、あの喜びに勝つことはないと思います。喜びの感情で熱が出たのは初めての体験でしたよ。僕がお笑いを目指す原点はダウンタウンさんでしたから」


しかし彼は〝神様〟と評するほど憧れの松本さんからの酒席の誘いを、なぜかひたすら断り続けている。


小田「そんなおいそれと、簡単に行けるものではないんですよ。興味がないハズがなくて、ホンマは行きたいんですけど、まだまだちょっと…って感じです。だからマネジャーに『5年後、まだテレビの第一線で活躍していたら、そのときまた誘ってください』と伝えてもらってます」


まだまだ上がある…というところだが、R-1はレギュレーション変更で出場は叶わず、M-1の出場も今のところ考えていないという。賞レースへの出場はもうないのだろうか?


小田「賞タイトルは取れてないですが、もともとこだわりはそれほどないかもしれません。それは運のもんでもあって、それ言い出したら終わりですけど、予選でいくらウケても結局負けるときは負けるし、ほななんやねん、ていうかね。


優勝の晴れやかさは感動しますよ。『THE SECOND』のギャロップさんも心底、感動しました。ただ、そこで僕もって感じにはならないんです…っていうのは、僕はテレビでダウンタウンさんと笑い飯さんが泣くまで泣かんと決めてるんですよ。お客さんも、番組的にもそういう感動の場面が求められてるのは分かるんですが、そこは我に返って恥ずいというかね。お笑いマックス振り切ってる先輩方が泣かへん限りは、僕もお笑い芸人らしく泣かんとこうと今まで堪えてきてたんですよ。だから感動の優勝にはならないですよ(笑)」


マルチな才能を発揮するピン芸人が増えてきた昨今。強烈な個性の出し合いの中で、強靭な喉を持つピン芸人のアドバンテージは高い。


(文●左文字右京/企画・撮影●丸山剛史)
おいでやす小田 1978年、京都府出身。もともとお笑い芸人志望だったが、通っていた大学を自主退学し衝動的にNSC(吉本総合芸能学院)へ。漫才に挑戦するが、2008年ごろにピン芸人となる。名付け親は武智(スーパーマラドーナ)。16年から20年まで5年連続で『R-1ぐらんぷり』ファイナリスト。同じくピン芸人のこがけんと『おいでやすこが』のユニットで20年、『M-1グランプリ』準優勝。
ドラマ『転職の魔王様』(関西テレビ、フジテレビ系)が7月17日より放送開始。おいでやす小田演じるは、温和で優しい人物ながら、強烈な結婚願望を持つ転職エージェントのキャリアアドバイザー。主演は成田凌と小芝風花、石田ゆり子、山口紗弥加ほか出演。