(画像)gabriel12/Shutterstock
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横山典弘「道中は馬と話をしながら、歌いながら乗っていました」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第59回

昨年12月に史上3人目となるJRA通算2900勝を達成し、55歳となった今も現役を続ける横山典弘。2人の息子もトップ騎手として活躍しており、一昨年の天皇賞・春では「親子3人競演」という珍しい記録もつくっている。


横山典弘のことをどのように呼ぶかで、その人の競馬歴が分かるらしい。「ヨコテン」や「ヨコノリ」はかなり歴の長いファン。「ノリ」や「ノリさん」ならそこそこ。最近のファンだと「横山パパ」などと呼んだりするという。


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横山家は昭和、平成、令和にわたって活躍を続ける競馬一族で、父の横山富雄も兄の横山賀一も元JRA騎手。叔父は元調教師の奥平真治。妹の夫は調教師の菊沢隆徳で、その息子の菊沢一樹もJRA騎手だ。


実の息子も、長男の和生と三男の武史がJRA騎手で、いずれもGIを勝利したトップ騎手。特に武史は2020年に、史上最年少で関東リーディングジョッキーに輝いており、今年もソールオリエンスで皐月賞を制している。


デビュー以来ずっと同じ横山姓の関係者が競馬界にいるため、競馬新聞などの名前表記は「横山」ではなく「横山典」とされてきた。


1986年にデビューすると、88年のウインターステークスでソダカザンに騎乗して重賞初勝利。90年にはキョウエイタップで初のGIタイトル、エリザベス女王杯に勝利するなど早くから結果を残してきた。


横山典の特徴は、大胆不敵な騎乗ぶりにある。04年の天皇賞・春では10番人気のイングランディーレで大逃げを敢行。単勝71.0倍、3連複20万円台(3連単の販売は同年秋から)の大波乱を演出し、「道中は馬と話をしながら、歌いながら乗っていました」とレースを振り返った。

“僕しか分からない感覚だから”

08年には7歳馬のカンパニーに初騎乗し、それまでの後方一気のレースから先行策に転換。いきなり重賞を連勝すると、8歳時にはJRA最高齢馬のGI制覇を成し遂げた(09年天皇賞・秋、マイルCS)。

重賞でもそれなりに実績のあった馬の脚質転換は、失敗を考えるとなかなかできることではないが、横山典は「先行もできる馬に見えたから」と、事もなげにやってのけた。


14年4月の安房特別ではケンブリッジサンに騎乗し、大逃げから一度はズルズル後退したかと思いきや、直線で差し返すという離れ業を演じている。


馬群から一騎だけ離れて後方待機することもしばしばで、ファンからは「横山典のポツン騎乗」と呼ばれたりもしているが、それで負ければ非難を浴びることは間違いない。


本人が「リスクを考えたらやらないほうがいいんだろうけど、勝つために『これしかない!』って思ってやっている」と話す通り、それも受け入れて最適解を求めるのが横山典の勝負術なのだ。


〝芦毛の暴れん坊〟ゴールドシップで臨んだ15年の天皇賞・春は、ポツン騎乗の代表例として知られる。このレースではスタート後から最後方に控え、2周目の向こう正面からスパートするという常識外の戦術で春の盾を手中にしてみせた。


特異なレース術について横山典は「馬にまたがったときのヒラメキだし、俺しか分からない感覚だから」「よく『馬の言葉が分かるの?』って聞かれるけど、分からなくはないよ」「どうせダメなときはクビになる。だったら後悔しない乗り方、後悔しない生き方をしたいね。馬を信じて」などと語っている。

セイウンスカイで大本命を撃破

横山典の全盛期は「西高東低」の時代であり、武豊に代表される関西騎手の活躍が目立っていた。

しかし、横山典は特に気負った様子を見せることもなく、98年にセイウンスカイで挑んだ皐月賞では「いつも武豊ばかりじゃ競馬は面白くない。違うかな」と話し、武とのコンビで大本命に推されたスペシャルウィークを撃破している。


同じくセイウンスカイでは、菊花賞で39年ぶりとなる逃げ切りを決めてクラシック2冠を達成。当時は自動車免許を所持していなかったため、騎手名鑑の愛車の欄に「セイウンスカイ」と記したこともあった。


基本的に口数の多いほうではなかったが、有力馬に騎乗する際には馬を信頼するあまり多弁になり、そんなときに限って敗れることも少なくなかった。


そのため、ファンの間では「ノリが吹いたら馬券は買うな」と言われ、本人も自覚していたのか、09年の皐月賞では1番人気のロジユニヴァースで14着と大敗し、騎乗後に「吹いたから負けたんですかね」と後悔を口にする場面も見られた。


なお、同馬で日本ダービーに勝利したときは、記念すべき自身のダービー初勝利だったにもかかわらず、それを喜ぶよりも先に「最低限の役割を果たしただけ」と語ったものだった。


しかし、独自の騎乗は成功をもたらすばかりではない。〝砂の女王〟ホクトベガと共に挑んだ97年4月のドバイ・ワールドカップでは、最終コーナーで転倒。ホクトベガは左前腕節部を複雑骨折し、安楽死処置を受けてしまう。


主宰者側は「馬場のわずかなくぼみに脚を取られた事故」と発表したが、横山典は「自分の強引な騎乗が事故を招いた」と激しく悔いて、一時は自殺まで考えるほど思い詰めたという。


横山典の馬への思い、レースへの思いを強く感じさせるエピソードであろう。 《文・脇本深八》
横山典弘 PROFILE●1968(昭和43)年2月23日生まれ。東京都出身。86年3月に美浦・石栗龍雄厩舎所属でデビュー。90年にGI初勝利。2010年と2012年にJRA賞最高勝率騎手を受賞。7月1日現在、JRA通算2919勝で重賞184勝(うちGI27勝)。