1978年に自ら「日本プロ野球名球会」を立ち上げ、初代会長としてトップに立った金田正一。後年はその自由奔放な言動を批判する声もあったが、プロ野球史に輝く数々の偉業から、不世出の大投手であったことは間違いない。
日本ハム時代の大谷翔平が165キロを投げたときのこと、テレビ番組で「(現役時代に)どれぐらい出ていたんですか?」と問われた金田正一は、「180キロは出ていたんじゃないかな」とうそぶいた。真偽の程はともかくとして、その現役時代を知る人々からは今でも「金田が歴代最速」との声が聞かれる。
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生前の野村克也も「バッター最強が〝怪童〟中西太さんなら、ピッチャーのそれは金田さんしかいない」と言ってはばからなかった。
プロ野球選手の体格が向上し、トレーニング方法も進歩した現在に比べて、昔のほうが優れていたということは常識的にあり得ない。陸上や水泳など五輪競技にしても、記録は更新されていくものだ。
しかし、金田の現役時代の映像を解析したところ、球速が159キロ以上だったとする事例もある。実測ではないので必ずしも正確とは言えないが、一部の映像でそれだけの数値が出ているならば、絶好調のときに160キロ以上だったとしても不思議ではない。
現在は160キロ以上を投げる投手も珍しくないが、ほとんどが右腕投手。金田と同じ左腕の160キロ超えは、日本プロ野球の公式戦では2019年と21年に横浜DeNAのエドウィン・エスコバーが記録しただけ。助っ人外国人以外では19年に非公式戦で、ソフトバンクの古谷優人が160キロを記録した。
140キロ台後半でも「剛腕」と呼ばれた時代に、身長185センチと当時としてはかなり長身の金田が、左オーバースローから投げ下ろす160キロ級の直球は、まさしく異次元のスピードに感じられたことだろう。
最年少記録も保持していた
さらに金田は、初見の打者にはバットに当てることすら困難な、当時「ドロップ」と呼ばれたタテに大きく落ちるカーブも武器として備えていた。
55年の日米野球で三冠王のミッキー・マントルから3三振を奪ったことで、ヤンキースの監督が「アメリカへ連れて帰りたい」と評したように、金田の実力に疑いの余地はない。
もっとも金田はメジャーからの誘いに対し、「向こうに行っても最初はマイナー。行くわけないだろ」と相手にしなかったという。金を稼ぐために高校中退でプロ入りした金田にとっては、当然の選択であった。
空前絶後の通算400勝、4490奪三振という日本記録を打ち立てた金田は、打撃にも優れ、代打に起用されることもあった。投手としての通算406安打、38本塁打は、いずれも大谷が登場するまでの日本記録で、17歳2カ月での初本塁打という野手を含めての最年少記録も持っている。
弱小球団だった国鉄スワローズにおいて絶対的な存在であり、その傍若無人な振る舞いに誰も文句を言えない様子から〝金田天皇〟とも称された。
負けん気も人一倍で、1958年の開幕戦で超大型ルーキーの長嶋茂雄と初対戦した際に、4打席連続三振を奪ったのも、直前のオープン戦で長嶋が左腕投手を打ち崩し、「金田も打てる」と報道されたことに発奮してのことだった。
60年9月30日の中日戦でも破天荒な伝説が生まれた。シーズン終了まで残り5試合、デビュー2年目から10年連続の20勝が危うくなっていた金田は、5回2点リードの場面で自らマウンドへ向かい、その途中で審判に「ピッチャー金田!」と伝えた。無死3塁のピンチではあったが、ベンチとしては先発の島谷勇雄のプロ初勝利が懸かっていたこともあり、交代の意図はなかったという。
猛練習で巨人の選手たちを感化
結果的にピンチを無失点で切り抜けた金田は、勝利投手の権利を得て、9回まで投げ切り念願の20勝を達成。試合後には「5回にとった態度は悪かったと反省している」と話したものの、金田のわがままぶりが如実に表れた出来事だった。
それでも実際に結果を出しているのだから、ベンチとしては文句を言いづらい。ただし、金田は単に成績が飛び抜けているだけでなく、練習においても他の誰よりもハードにこなすため、選手間でも批判の声はほとんど聞かれなかったという。
後年に商品化された『金田式健康棒』なるものもあったが、練習の主体はあくまでも走り込み。「下半身で野球をやっている人はピンチを招いても力まない」「ピッチャーは走らなきゃいかん。俺が引退するときは走れなくなったときだ」との信念から、誰よりも成績のいい金田が、汗だくになって走りまくっていた。
これは巨人に移籍した後も同様で、川上哲治監督が「金田君の練習量は並大抵ではない」と感嘆し、これに感化された他の選手たちも目の色を変えて練習に励んだことが、V9の偉業につながったとの評価もある。
食事では主に鶏肉を用いた鍋料理でタンパク質を摂取しており、これは現代の栄養学に通じるものがある。左手で重い荷物は絶対に持たず、酒席に付き合っても夜10時には必ず帰宅するなど、コンディション調整も徹底していた。
他人に厳しく自分にも厳しい。金田は筋金入りのプロフェッショナルであった。
《文・脇本深八》
金田正一
PROFILE●1933年8月1日生まれ。愛知県出身。50年に享栄商を中退して国鉄スワローズに入団。65年に巨人移籍。球界を代表する投手として数々の大記録を樹立した。引退後はロッテの監督を務め、74年には日本一に輝く。2019年に死去。
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