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隆の里「千代の富士に勝つことは3勝分の価値がある」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第57回

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(画像)rinko3/Shutterstock

日本中がウルフ・フィーバーに沸き立った1980年代初頭、千代の富士の前に立ちはだかり意地を見せた〝おしん横綱〟隆の里。最大のライバルと繰り広げた激闘の裏側には、徹底した取組の研究と自己管理があったという。

初土俵から横綱昇進まで91場所を要した隆の里は、角界でも史上2番目のスロー出世(1位は三重ノ海の97場所)。長年の辛抱と努力をたたえる意味で、当時の国民的人気ドラマになぞらえ〝おしん横綱〟と呼ばれたりもした。

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入門のきっかけは偶然だった。初代若乃花の二子山親方が、のちの横綱2代目若乃花(若三杉)をスカウトするため青森県を訪れた際、「親方、ほかにも大きな子がいますよ」という話になり、当時、高校1年生の隆の里も一緒に上京することになった。

出世が大きく遅れたのは、幕下の頃に酒を飲みすぎて、糖尿病を患ったことが原因。このときは未成年であり自業自得とも言えそうだが、若くして単身修行をする中で父と妹を立て続けに亡くしており、いくらか同情の余地はあるだろう。

かなりの重症だったというが、周囲には病気のことをひた隠しにして荒稽古に耐え、徐々に番付を上げていった。しかし、勝てばほぼ十両昇進という一番で、あまりの疲労感からまったく力を出せずに敗北。ようやく師匠に病気のことを明かし、真面目に治療と向き合い始めた。

隆の里は幕下で3年を過ごし、十両、幕内に昇進しても上がったり下がったりの時期が6年近く続いた。のちに「相撲で務まらなくて中途半端な状態で田舎に帰ったら、何を言われるか分からない。だから頑張った」と、当時の心境を振り返っている。

病気とも闘った大器晩成型力士

だが、医師からの指示に従うだけでは、相撲を取るための肉体をつくることはままならない。そのため隆の里は、独自に医学書などを読み込んで漢方薬や食事療法の研究をした。さらに、最新のスポーツ生理学を学ぶ中で「筋肉をつけて基礎代謝を上げることが血糖値を下げる」との考えに至り、大学で科学的な筋力トレーニングなどの指導を受けるようになった。

その結果、糖尿病自体の完全克服には至らなかったものの、隆の里は周囲から〝ポパイ〟とあだ名されるほどの筋肉と怪力を手に入れた。1980年7月場所、前頭12枚目で12勝3敗、敢闘賞を受賞して遅まきながら上昇気流に乗ると、82年3月場所に大関、83年9月場所には横綱に昇進した。

隆の里の研究熱心ぶりは自身の体に関してだけではなく、相撲の取組においても存分に発揮された。当時は〝ウルフ〟千代の富士の全盛期。隆の里は「打倒、千代の富士」を誓うと、ライバルの取組映像をビデオテープが擦り切れるほど何度も見返し、研究を重ねた。

特に鋭い立ち合いを攻略するため、ひたすらスローモーションと一時停止を繰り返したことで、新品のビデオデッキがすぐに壊れたという逸話も残されている。千代の富士に関することは、新聞や雑誌の記事も何度も読み返して、その情報を頭に叩き込んだ。

そうした研究の集大成と言えるのが83年9月場所の大一番、千秋楽結びの全勝対決だ。隆の里にとっては新横綱になった最初の場所。立ち合いから右四つに組み合うと、千代の富士は先に得意の左上手を引いて、有利な体勢に持ち込もうとする。右まわしも取られた隆の里は、左脇が上がりまわしに届かない。

しかし、隆の里にとってこれは想定内で、「攻めてくるときは必ず腰を深く入れてくる。まわしはそのときに取れる」との確信があった。上半身の力を抜くと、案の定、千代の富士は隆の里を吊って出ようと両まわしを引きつけ、腰を入れて体を密着させてきた。その刹那に隆の里は左上手を引きつけると、がっぷり四つの体勢から、怪力に物を言わせて豪快に吊り返してみせた。

隆の里、会心の勝利。新横綱の全勝優勝は38年1月場所の双葉山以来、実に45年ぶり、15日制定着後は史上初の快挙であった。

〝ウルフキラー〟として名を残す

千代の富士との対戦成績は、隆の里が16勝12敗で勝ち越し。対千代の富士戦の16勝は歴代最多であり、中でも81年7月場所から82年9月場所にかけては、千代の富士の横綱昇進をまたいで8連勝を記録している。

当時の天敵ぶりは、千代の富士が「何をしても全部読まれて裏目に出る」と嘆いたほどで、一方の隆の里は「千代の富士に勝つことは3勝分の価値がある」と常々語っていた。優勝回数は4回と決して多くはない隆の里だが、昭和の相撲史に〝ウルフキラー〟として強烈な印象を残している。

引退後は二子山部屋から分家独立して鳴戸部屋を創設し、弟子たちには師匠譲りの厳しい稽古を課すとともに、自身の経験からウエートトレーニング用の器具を完備。食育にも熱心で、部屋のちゃんこに市販の製品が並ぶことはなかった。

ある朝、食卓にカレーライスなどが並ぶのを見た隆の里(鳴門親方)は、「俺たちがスプーンでカレーを食っている姿をよその人が見たら、力士のイメージが崩れるし、伝統美もなくなる」「食をおろそかにする者は土俵でも勝てない」と激怒したという。

科学と伝統、両方を兼ね備えて後進の指導に当たった隆の里は、11年に59歳の若さで急逝したが、その遺志は直弟子の稀勢の里(第72代横綱、二所ノ関親方)らに引き継がれている。
《文・脇本深八》

隆の里
PROFILE●1952年9月29日生まれ。青森県出身。初代若乃花の二子山親方にスカウトされ、68年に初土俵。辛抱強く力をつけて83年に30歳で第59代横綱に昇進した。幕内優勝4回、幕内通算464勝313敗。2011年に急性呼吸不全のため死去。

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