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ジャイアント馬場「全然、決起していない」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

三沢光晴
三沢光晴(C)週刊実話Web

1986年、ヘビー級に転向した2代目タイガーマスクは、当初、ジャンボ鶴田のパートナーを務めたが、鶴田が谷津嘉章と「五輪コンビ」を結成したことで独立。タイガーの正体が三沢光晴であることを明かした上で、「決起軍」のリーダーとなったのだが…。

いまやプロレス興行において欠かせないものとなっているのが、団体所属選手たちが結成する軍団やユニットだろう。

身内で対立構図をつくれば、高額なファイトマネーを要する外国人や他団体の選手などの外敵をそろえなくても興行が成立する。そういった実利的な面が一番のメリットで、さらに加えて「選手の売り出し」にも一役買うことになる。

その先駆けとも言えるのが長州力の「維新軍」であり、最近では新日本プロレスの前2冠王者・内藤哲也の「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」が代表的なところ。

軍団やユニットとなればシングル、タッグと、個人で闘うよりも活動の幅が広がる。これが成功すれば蝶野正洋の「nWo」のようにリング上を席巻すると同時に、サポーターグッズの販売などによっても団体に大きな収益をもたらすことになる。

しかし、だからといって安易に結成しても、そうそううまく行くものではない。

例えば、新日では藤波辰爾の「ドラゴンボンバーズ」をはじめ、JJジャックス(野上彰&飯塚高史)やマッスルオーケストラ(中西学&ストロングマン)など、よほどのファンでないと覚えていないようなユニットが、いくつも結成されては消えていった。

大いに期待されての抜擢だったのだが…

全日本プロレスにおいては、一つのユニットが解散となっても、そこから新たなストーリーとともに新ユニットを誕生させる連続性を重視していたことから(小橋建太なら超世代軍→GET→バーニングといった具合)、新日よりは成功率が高かったものの、それでもやはり失敗例はある。

後年になって三沢光晴が「人生の汚点」とまで吐き捨てた「決起軍」は、その最たるものだろう。

1988年、当時の全日マットで猛威を振るっていた「天龍同盟」の打倒を掲げ、2代目タイガーマスク(自身の結婚を機に正体が三沢であることを公表)を中心として決起軍は結成された。

他のメンバーは仲野信市、高野俊二(拳磁)、高木功、田上明。このメンバーを見て「そりゃあ失敗するわ」と思うファンは多いだろうが、しかし、それは今だから言えること。当時の仲野は「新日時代からの若手のホープ」、高野は「フィジカルに優れた未完の大器」、高木と田上はともに「大相撲の元十両から転向した巨漢」といった具合に、いずれも〝将来のメインイベンター〟として大いに期待されての抜擢だった。

突如伝えられたブロディの訃報

本格始動となった7月の「1988サマーアクション・シリーズ」開幕戦で、三沢タイガーは田上と組んで天龍源一郎&阿修羅原の龍原砲と対戦したが、結果は田上が天龍のスリーパー・ホールドにギブアップ負けを喫した。

また、高野はスタン・ハンセンとのシングルマッチに挑んだものの、4分足らずでウエスタン・ラリアットに沈んでいる。

ただし、これについては各選手のキャリアからしても当然の結果であり、まだ決起軍の先行きを左右することではなかった。

シリーズ中、勝敗を度外視して天龍やハンセンに食らいついていき、それを糧にして決起軍のメンバーが成長していくことを周囲は期待していたのだが、ここで予期せぬ事態が起こる。突如、ブルーザー・ブロディの訃報が伝えられたのだ。

当然のごとくプロレス界の話題はブロディ一色となり、リング上でも注目が集まるのは、ブロディとライバル関係にあったハンセンや鶴田であった。

完全に蚊帳の外となってしまった決起軍は、話題性が激減したのと同時に三沢タイガーが膝を負傷し、低調なファイトを続けることになってしまう。

チャンスをもらいながら奮起しなかった面々にも問題はあっただろう。だが、あのブロディと争ったハンセンや鶴田が、若手の域を出ない決起軍に苦戦するわけにもいかず、たいした見せ場もないまま脇役扱いされるという不運もあった。

三沢光晴の一本立ちが最大の目的だったが…

一応の成果としては、仲野が渕正信から世界ジュニアヘビー級王座を、仲野&高野のコンビで川田利明&サムソン冬木からアジアタッグ王座を奪取しているが、いずれも初防衛に失敗して王座から陥落している。

とりわけ仲野の防衛戦は、すでに40歳を超えて前座が定位置だった〝6時半の男〟百田光雄に敗れての王座転落で、その結果は決起軍の存在意義を問われるものであった。

これと同時期、三沢タイガーが膝の手術のため長期欠場となると、そもそも三沢の一本立ちが最大の目的だったこともあって、ジャイアント馬場は「全然、決起していない」と、その解散を宣告したのだった。

その後、三沢は素顔に戻って団体のトップに立ったが、田上は四天王に数えられたものの、生来の練習嫌いもあってレスラー人生の大半を〝休火山状態〟ですごすことに…。

その後、全日を離れて他団体に移籍した仲野、高野、高木も、ついぞ大成することはなかった。

《文・脇本深八》

ジャイアント馬場
PROFILE●1938年1月23日生まれ。新潟県三条市出身。身長209センチ、体重135キロ。 得意技/16文キック、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ。

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