(画像)Morumotto/Shutterstock
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若松勉「ファンの皆さま、本当に、おめでとうございます」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第56回

ヤクルトスワローズ一筋に19年間プレーし、引退後も同球団で監督を務めた若松勉。選手、指揮官の両方でチームを日本一に導いた功績は文句なしだが、社会人5年を経てからの入団で名球会入りを果たした努力の人でもある。


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通算2173安打を記録したヒットメーカーながら、公称168センチという身長は名球会入りした選手たちの中で最も低く、実際には「166センチだった」と自ら語る〝小さな大打者〟若松勉。


通算打率3割1分9厘は、5000打数以上の選手に限れば歴代1位(2023年シーズン開幕時点の日本プロ野球記録、以下同)。規定打席以上でのシーズン3割達成は通算12回。1シーズンで50三振以上を喫したことがないという、まさしく安打製造機であった。


若松は勝負強さも兼ね備えていて、通算サヨナラ本塁打8本は王貞治と並ぶ歴代4位。二度目の首位打者を獲得した77年には、史上2人しかいない2試合連続代打サヨナラ本塁打も放っている(もう1人は68年、ヤクルトの前身、サンケイ時代の豊田泰光)。


同年6月5日の中日戦で、けん制タッチアウトとなった際に右脇腹を痛め、5試合スタメンから外れていた若松は、同12日の広島戦、2対2で迎えた延長10回裏に代打として登場。まだ脇腹には痛みが残り、試合前の打撃練習でも5〜6本打っただけだったという。

“ミスタースワローズ”にふさわしい

そのため「ひと振りしかできない」と1球勝負に懸けた若松は、相手エースで前年最多勝の池谷公二郎が投じた初球、スライダーが真ん中に甘く入ってくるところを見逃さず、思いきり引っ張ってライトスタンドに叩き込んだ。

さらに翌13日の同じく広島戦、6対6で迎えた9回裏に再び代打で起用された若松は、まるで前日の再現VTRを見るように松原明夫の初球スライダーをライトスタンドへ。2試合連続の代打サヨナラ弾に打った本人も「どうなっちゃってんの? 自分でも怖いみたい」と驚きを隠せなかった。


通算の代打サヨナラ本塁打は3本で、こちらも阪急の〝代打男〟高井保弘と並ぶ歴代最多記録。78年の大洋戦では、3イニング連続本塁打という珍しい記録も残している(ほかに田淵幸一、山倉和博、清原和博など計7選手が達成)。


通算本塁打は220本。時代や舞台が違うため単純比較はできないが、数字だけを見ればイチローの日米通算本塁打235本、通算打率3割2分2厘と遜色ない。


また、新庄剛志に先駆けて、敬遠球を狙ってヒットにするという離れ業も78年に実現している。同年、若松はセ・リーグMVPを獲得。日本シリーズでも優秀選手賞に選ばれるなど、球団初となるリーグ優勝と日本一の原動力となった。


現役後半は持病の腰痛が悪化したことに加え、87年に試合中の事故で尾骨を骨折した影響で、代打の切り札として活躍。しかし、ここでも打率3割以上と結果を出している。


結局、若松は89年限りで引退することになったが、まさに〝ミスタースワローズ〟と称されるにふさわしい現役生活だった

自分よりファンを優先する人柄

現役引退後、球団からは関根潤三の後任として監督要請もあったという。だが、謙虚な性格ゆえかいったんこれを断っている。

若松が監督に就任したのは99年で、前年4位の野村克也に代わり打撃コーチから昇格。主力選手の故障やFA移籍などに見舞われながらも、7年の在任期間中でAクラス4回、2001年には日本一にも輝いた。


同年、リーグ優勝後のインタビューに際して、若松は「ファンの皆さま、本当に、おめでとうございます」と第一声を放った。すると、口下手なことも相まって、実は「ありがとうございます」の言い間違いではないかと話題になった。


だが、のちに若松は「温かい目で見守り、熱い応援をしてくれた。そんなファンに真っ先に感謝したかった。私は『ありがとうございます』と言うより、『おめでとうございます』と言ったほうが、感謝の気持ちをあらわすにはふさわしいと思った」と、自著に記している。


つまり若松は、自身が優勝を喜ぶ気持ちよりも、まず最初にファンの喜ぶ姿を受け止めて、そんなファンに向けて「おめでとう」と語りかけたわけである。


入団時には〝魔術師〟とうたわれた三原脩、初の日本一は〝管理野球〟の広岡達朗、そして引退後は〝ID野球〟の野村といった名将の下で学び、そこに持ち前の真面目さと人の良さが加わったことで、独自の監督像が完成した。


当時のチームリーダーだった古田敦也は、「野村監督は、この人についていけば大丈夫と思わせる監督。若松監督は、この人を胴上げしたいと思わせる監督」だと語っている。


実際、リーグ優勝時の胴上げでは、選手たちが若松の小さな体を過去に例を見ないほど高く持ち上げ、日本一の後には上空でクルリと一回転までさせられた。


それだけ愛される監督だったとも言えるのだろうが、いくらか軽んじられているふうでもあり、そんな少し生意気な選手たちに対し、若松は「監督業とは我慢することと見つけたり」と語っている。


《文・脇本深八》
若松勉 PROFILE●1947年4月17日生まれ。北海道出身。北海高から電電北海道を経て、ドラフト3位で71年にヤクルト入団。小柄な体格ながらリーグを代表する外野手として活躍し、72年と77年に首位打者のタイトルを獲得。78年にはMVPに輝く。