仁支川峰子 (C)週刊実話Web
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歌手・女優/仁支川峰子インタビュー~芸能生活50年目を目前に振り返る人生と舞台公演について

来年、芸能生活50年目を迎える仁支川峰子が藤山直美座長公演『泣いたらあかん』(大阪・新歌舞伎座5月28日~6月20日、福岡・博多座7月1日~23日)に出演中だ。コロナ禍以降、制約のない中で長期公演が行われるのは久しぶりとあって、待ちかねた演劇ファンで大盛況だという。その仁支川に舞台の見どころを始め、フルオープン写真集のこと、離婚や改名、大病を含め何度も死にかけた話など、来年、50年目を迎えるにあたり、思い出を語ってもらった。


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――『泣いたらあかん』は16年ぶりの上演だそうですね。まずは仁支川さんの役どころを教えてください。


仁支川 舞台は昭和の初め頃です。「大和なでしこ」という人気一座があり、座長を務めるのが藤山直美さん(川路鹿子役)。私はその父親の後妻(喜久江役)として、娘役の禎子(南野陽子)を連れて入るんです。娘には芝居の経験がないのに、可愛いものだから、なんとか一座に入れたいと主張して座長の鹿子さんの猛反対に遭う…という設定です。南野さんとは初共演で、母娘役でやらせてもらってます。


――藤山さんとは約4年ぶり4回目の共演だそうですが、一緒に作る舞台はどんな感じですか?


仁支川 脚本家さん、演出家さんはもちろんいらっしゃるんですが、藤山さんは小っちゃい頃からいろんなお芝居を見てきているので全部知り尽くしてるんです。端から端まで目が行き届き、気になったところはちゃんと指示してくれます。分かりやすく説明してくれるので、とってもやりやすくてお稽古も楽しかったですよ。


――舞台以外ではどんな話をされるんですか?


仁支川 聞き上手というか、いろんな話を振ってくれて、「お薬飲んではります?」というところから始まり、「お芝居には感情が大事です。たとえば付き合ってる男の人が仕事に行ってるはずなのに(いるはずのない)羽田空港で見かけましたよってなったときに、『えーっ!?』ていう、この湧き上がるような気持ち。体が冷えてわなわなしていくような感情ってありますやんか?」など、主に健康の話や芝居の話などいろんな話をしています。

コロナ禍で仕事はキャンセル

こちらの公演は大阪・新歌舞伎座を設立し、大正から昭和初期に女優として活躍した松尾波儔江(はずえ)の著書を元にした一代記で、父は借金まみれ、夫は異母妹と駆け落ち…と藤山直美さんが波乱の女座長役を演じていますね。

仁支川 はい。この舞台は戦前戦後を描いています。家族愛、人間として何が必要かなど、お客様がどう感じ取ってくださるか。泣いていたらなにもできない、とにかく笑って前に進むしかない。生きてさえいれば誰かと出会ってまたやり直せる…そんなことを考えさせられます。


――コロナ禍以降、長期間の公演は久しぶりですね。


仁支川 ほんとにそう。藤山直美さんもおっしゃっていたのですが、これを機に舞台を見る楽しみを思い出していただきたいです。私に関して言えば丸々2カ月間東京に帰れなくて、1週間だけ戻ったら、また博多に入るんです(博多座にて7月1日~23日まで同公演)。お仕事が大好きですから、本当にうれしいですね。


――行動制限されたコロナ禍の間、どのように過ごされてましたか?


仁支川 仕事はすべてキャンセル。友人と連絡を取るようなこともせず、唯一、引っ越しだけはしましたね。大量にあった着物を半分以上減らしたりして、断捨離をしていました。ただ、舞台はほぼ上演中止だった頃、シリーズで行っている『悪い女は嘘をつく』(2021年4月。築地本願寺ブディストホール)の舞台だけは奇跡的に上演できたんです。マスクをしながら稽古をし、誰かが感染したら幕を開けられないわけですから恐る恐るでした。1年間のうち、緊急事態宣言が解除されたのは3カ月しかなかったんですけど、その間に稽古と本番の時期がちょうどハマったんです。幕が下りて数日後にまた緊急事態宣言。めちゃくちゃ運がよかったと思います。


――演歌『あなたにあげる』でデビューしたのが10代。20代で女優として開花し、30代では生まれたままの姿を見せた。かねてから「脱ぐのは35歳まで」と決めていたそうですね。


仁支川 そこは私の勝手な決め事で、女性の体が最も美しく見える時期は35歳までだと思っていたんです。それ以降もオファーはいただきましたが、一切受けていません。 唯一の後悔といえば…

――初めての披露は映画『吉原炎上』(87年、東映)。豊満を披露されるのですが、イメージとのギャップに驚かされました。


仁支川 実は歌手デビュー当時は39キロしかなくて、細すぎることを隠すためにパンタロンスーツを着ていたんです。でも、胸だけは当時から大きかったんですよ。


――花魁の小花に扮した仁支川さんは幼い頃に吉原に売られ、結核に心身を冒されながら必死に生きる女。「誰でもいいからさ…抱いておくれよ。お願いだから…ねぇ、ねぇ…ここ、ここ噛んで、ここ! 噛んでよぉ! 噛んで~!」というセリフが圧巻でした。


仁支川 あの映画のおかげで、私は今でも東京の新宿2丁目界隈では〝神様〟と呼ばれてます(笑)。生き様がニューハーフの方々から憧れられているらしいです。でもあの役、出演オファーが届いたのは撮影の8日前だったんです。一発本番で、NGが許されないシーンでした。私にとっては一番印象的な作品になりました。


――その後、写真集ではフルオープンも披露されました。いまだに古書店でも人気で高値で取引されてますね。


仁支川 こだわりがあった分、掲載する写真も1枚1枚真剣に選びました。自分で選ばないと気が済まないんです。なので、今見ても全く後悔はないです。


――カメラマンさんとの相性などはありましたか?


仁支川 良し悪しというより、ロケ地の選定で苦い思い出が一つだけあります。野村誠一さんに「どこがいい?」と聞かれて、私は「南国系とかスイスもいいですね」と話していたのに、野村さんが「僕はインドが好きでねぇ」って。人生観が変わるよと言われてインドロケになったんです。ところが、冷房は効かないし清潔じゃないしで、暑がりの私には地獄でした。日本から持って行ったレトルト食品を食べ、現地のものは一切食べませんでした。おかげでスタッフは全員お腹を壊してましたけど、私だけ大丈夫でした(笑)。もしスイスで撮っていたら、どうなっていたのか…。それだけが唯一の後悔ですね。


――雑誌の袋とじ企画などでは、いまだに当時のヌード写真が再録されています。そちらもセレクトされているんでしょうか?


仁支川 選ぶというか、カメラマンさんから送られてきたものをチェックしてOKを出しています。当時から殿方だけに見てもらいたくて出したんじゃなく、女性にも見てもらいたかったので、今の時代に「わあ、綺麗。私も記念に撮って残しておこうかな」という風に思ってくれたらうれしいですよね。なので、私が亡くなってからも身内で保管してもらい「峰子おばちゃんてこうだったの?」みたいに語り継がれていくのが理想です(笑)。


――さきほど、運の話が出ました。仁支川さんの人生は山あり谷ありで、1998年には那須高原に建てた新築1カ月の自宅を台風に伴う豪雨で流され、2009年には離婚、その年の年末にテレビ番組で改名したら、翌年には甲状腺がんになられた。


仁支川 そうですね。経験してないのは火事だけです。栄養失調で5歳頃までは歩くこともできない虚弱体質。地元で「のど自慢大会荒らし」と呼ばれるようになった中学生の頃にようやく元気になり、15歳で上京して歌手デビューしたけれど、19歳のときに喉がつぶれてしまい、思うように声が出なくなりました。

乗り越えるたびにパワーアップした

――映画『人間の証明』に出演し女優の仕事をスタートさせていますね。ところが21歳で水疱瘡による高熱のため生死の境をさまよい、22歳で卵巣腫瘍で開腹手術を受けてるんですよね…。

仁支川 32歳のときにはマネジャーの運転する車で高速道路で横転し、九死に一生を得たこともあります。51歳のがん手術では、麻酔の誤投与や術後出血で10回死にかけてるんです。それまでのものと合わせると、計14回ですね。ただ、私はどんな試練に遭遇しても、悩む時間は不毛だと考えています。現実を潔く受け入れ、悩みに悶々としないことが私の心の健康法なんです。


――ポジティブでいつも溌溂としているイメージは、そこからくるんですね。


仁支川 神様は、逃げずに試練と対峙した人にはご褒美を与えてくださいます。実際、試練を乗り越えるたびにパワーアップしてきました。ちなみに私は離婚直後に「西川」から「仁支川」に改名しました。それまでの4文字の印象がカクカクしていて、自分的に好きじゃなかったのが理由です。ただ、直後にがんになってしまったので、「逆効果だったんじゃないか」と考える人もいると思います。でも、それは後ろ向きの考え方。私はむしろ、改名したからこそ、奥にいたがんが出てきてくれた、早く出てきたことで命が助かったと思っています。今も定期的に検診は受けていますが、すこぶる健康ですよ。


――美容や健康維持のために心がけていることはありますか?


仁支川 美容に関しては何の興味もありません(笑)。心がけているのはバランスのいい食事。家では30品目くらい使った料理を自分で作り、ゆっくり食べるようにしています。おかげで38年間、一度も風邪をひいていません。運動に関しては、以前、医療系バラエティー番組に出演したとき、言われたのは、「とにかく歩きなさい」ということでした。それで毎日、1万2000~4000歩くらい歩くようにしていたんです。そしたら膝に水が溜まってパンパンに腫れちゃって、どうにもならなくて病院に行ったら先生に怒られちゃいました。レントゲンを見ながら先生は「仁支川さん、あなたは歩かなくていい体なんですよ」って。要は、レントゲンで足の骨の仕組みを診て、歩く必要があるかどうかを判断してもらってからにすべきでしたと言われたんです。


――それは知らなかった。


仁支川 私の場合は小学校に通うとき、往復8キロを毎日歩いていたことで骨が出来上がっていたんですね。そこを無理やり歩いたことで削れて炎症を起こしたんだそうです。なので、この記事をご覧になってる読者の方々、健康のために歩きたいなら、まずはレントゲンを撮ってお医者様の指示を仰いだ方がいいですよ!
◆にしかわみねこ 1958年5月23日生まれ。福岡県出身。1974年“やまびこ演歌”のキャッチフレーズで歌手デビュー。同年、日本レコード大賞新人賞を受賞。現在は、舞台や映像はもちろん、バラエティー番組やコンサートなど幅広く活躍している。インスタグラム@mineko_nishikawa_offical