山田久志(C)週刊実話Web
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山田久志「すべてのものに“準備”が一番大事だと思ってるんです」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第54回

漫画の世界では『ドカベン』の里中智や『野球狂の詩』の水原勇気など、どことなく華麗なイメージがあるアンダースローの投手たち。しかし、サブマリン投法のレジェンドとして知られる山田久志は、あくまでも努力の人であった。


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通算284勝は日本プロ野球の歴代7位。阪急ブレーブスのエースとして7度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した山田久志は、アンダースローの投手として世界最高レベルの成績を残している。


近年の下手投げでは阪神の青柳晃洋の活躍が目立つものの、青柳の場合はやや低めから投げるサイドスローといった感じ。地面を這うようにして低空からすくい上げる、いわゆる「サブマリン投法」で活躍した選手となると、2000年代に名をはせた渡辺俊介(ロッテ)までさかのぼらなければならない。


以前、人気バラエティー『水曜日のダウンタウン』(TBS系)でアンダースローのアマチュア選手を調べたことがあったが、このとき番組が見つけた小学生の変則投げ投手は、サイドスローの1人だけ。これに解説役で出演した山田は、アンダースローが絶滅危惧種となった理由を「アマチュア野球にアンダースローの指導者がいない」「左打者が多くなった(右下手投げは左打者に長打を打たれやすい)」と話している。


そんな山田はどうしてアンダースローになったのか。


当初、内野手だった山田は、高校2年の夏に監督から投手転向を命じられ、コントロールを安定させるためにサイドからアンダーへと変化していった。オーバースローの本格投手のように振りかぶり、そこから上体を倒して下から投げる。その投球フォームからは、山田の試行錯誤の歴史がうかがえるようでもある。

「野手に好かれるピッチャーになれ」

社会人から68年のドラフト1位で阪急に入団して、2年目には開幕ローテーション入りするが、いきなり6連敗。1年目の0勝1敗と併せて7連敗からのプロ生活となった。

勝てない新人となれば、見捨てられてもおかしくない。山田自身も「2連敗3連敗までは、まだ大丈夫。なんとかなるさという感じなんだけれど、5連敗6連敗となったら俺もう勝てないなってなる」と、その頃の絶望感を語っている。


だが、当時の西本幸雄監督はそんな山田に対して、「野手に好かれるピッチャーになれ」と声を掛けた。さらに続けて「負け投手になっても、野手が『今日は悪かった。打てなかったし、守ってやれなかった。俺らがもうちょっと打って、守ってやれたら、山田も勝てたのになぁ』と思ってくれる。そういうピッチャーにならなきゃ、この世界ではやっていけないぞ」と、アドバイスを送った。


これを聞いて山田は、普段からコツコツとやるべきことをやり、努力する姿勢の大切さを悟ったという。


「点を取られたとき、ホームランを打たれたときに、どういう仕草をするかも全部、野手もベンチも見てるわけよ。そのときにしなくちゃいけないことが、おのずと分かってきたら良いピッチャーになっていく」


そうして3年目の71年シーズンは22勝を挙げ、最優秀防御率と最高勝率のタイトルを獲得。巨人を相手にした日本シリーズにも自信満々で挑み、山田は「かかってこい」の気持ちだったという。ところが、第3戦1-0の完封ペースで迎えた9回裏、2アウトから王貞治に逆転サヨナラ3ランを浴びてしまう。


シリーズも敗退して失意の終幕となったが、それでも下を向くことはなく、以降も阪急のエースとして胸を張り続けた。

清原和博から通算2000奪三振

落合博満(当時ロッテ)は同じ秋田県出身の山田について「最後は必ずシンカーだから」と話し、山田の200勝達成試合でも3本塁打を放つなど好相性を誇っていた。対して山田はすでにキャリア晩年に差し掛かっていたが、それでもウイニングショットにはシンカーを投じ続けた。相手主砲に決め球で勝負することが、エースとしての矜持だった。

40歳手前となった87年には、力の衰えから引退をささやかれながらも現役を続行。300勝にこだわっていると揶揄されたが、「俺は記録やユニフォームに未練があるんじゃない。野球そのものに未練があるんだ」と話し、清原和博(当時西武)を相手に通算2000奪三振を達成してみせた。


そのような姿を周囲が信頼した結果、山田は大投手に成長することができたのである。


引退後、指導者としてはその一徹な性格から、フロントや選手たちと折り合いが悪くなることもしばしばだった。そうした面もありながら中日監督を務めた02〜03年(途中退任)は、優勝こそ逃したもののいずれもAクラス。福留孝介の外野コンバートや、荒木雅博と井端弘和のアライバコンビを固定するなど、続く落合政権の基礎をつくり上げている。


現在、名古屋のラジオ局で『栄光に近道なし』というコーナーを担当しているが、このタイトルについて山田は、「野球の世界だけじゃなくて、生活の中にあるすべてのものに〝準備〟が一番大事だと思ってるんです。準備をしっかりしていくことで、最終的な結果が出てくる。そういう気持ちでいるんですよ」と語っている。


《文・脇本深八》
山田久志 PROFILE●1948年7月29日生まれ。秋田県出身。能代高、富士製鐵釜石から68年のドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。70年代の阪急黄金期にエースとして活躍し、アンダースロー投手としては日本プロ野球最多となる通算284勝を記録した。