みなみかわ(C)週刊実話Web
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みなみかわインタビュー〜何度もよぎった芸人引退「妻が辞めさせてくれなかったんです」〜

お笑いファンが欠かさず見る『さんまのお笑い向上委員会』(フジテレビ系)や『ゴットタン』(テレビ東京)で注目を集め、いまや見ない日はないまでに多忙な毎日を送る遅咲きのピン芸人・みなみかわさん。しかし、ここに至るまでは最大級の挫折や紆余曲折があったのだとか…。


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――最初にブレークされたのは『あらびき団』(TBS系)でしたね。


みなみかわ「松竹芸能で『ピーマンズスタンダード』っていうコンビでやってたんですけど、年末のカウントダウンライブを相方がズル休みしたんです。それでライブに出られなくなるって、なんやねんって頭にきて『ピンネタで出ます』って、頭の中にあったフレーズで3分くらいのネタを作ってやったらウケたんです。『ウケたやん』と思って、そのネタを『R-1グランプリ』(フジテレビ系)に持っていったら準決勝まで行けたんです」


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――韓国のバックダンサーのネタでしたね。


みなみかわ「それを見てた『あらびき団』のスタッフから出演依頼があって出たら応援されるようになって、それを足がかりに東京に出てきたって感じですね」


――大阪時代はなかなか芽が出なかったとか。


みなみかわ「大阪って9割9分が吉本なんです。東京に来た方がいいと、大阪におる芸人には言ってます」


――やはり大阪は圧倒的な吉本市場なんですね。


みなみかわ「僕、ほんまとんがってたんで、先輩芸人のことも『全然オモんないやんけ』『何がおもろいねん』みたいなことをずっと言ってたんですよ。僕がピンで『あらびき団』で全国にパッて出てたんで、『ほら見たことか』って東京に行くみたいな感じでした。めちゃくちゃイタかったですね。今では、ほんま、すんませんでしたって平謝りです(苦笑)」


――東京に来られてからはどうでしたか?


みなみかわ「『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)に出てレッドカーペット賞が取れたりしたんですけど、僕らが出たのは全盛期を過ぎた後で、そのまま番組が終わっちゃうんです」

「妻が辞めさせてくれなかった」

――レッドカーペットは人気番組でしたから、影響あったんじゃないですか?

みなみかわ「その後『(株)世界衝撃映像社』(フジテレビ系)っていう海外ロケ番組が決まるんですよ。オーディションで、200組ぐらいの中から選ばれました」


――すごい! 高田純次さん、マツコ・デラックスさん司会の番組ですね。


みなみかわ「コーナーを持たせてもらったんですけど、大スベりするんですよ。ロケは初めてで、しかも衝撃映像を探して撮ってくる企画やったんで難しかったんです。結局、番組は半年で終わるんですけど、ノブコブ(『平成ノブシコブシ』)さんは部族のロケで売れたし言い訳できないんです。僕らは腕がなかったと分かった。それが最大の挫折ですね。そこから6〜7年は何もなかったですから」


――せっかく上京したのに最大級の挫折を味わい、さらに仕事も途絶えたと。


みなみかわ「やっぱり賞レースに出て結果出すしかないと思って、漫才とか頑張るんですけどうまくいかない。でも頑張ってネタを作って、ちょっと番組に出られたりしたんですけど、それが全然長続きしなくてずっと売れないまま。バイトばっかりの生活でつらかったですね。2010年から15年の間が一番地獄でした」


――芸人を辞めるってことは考えなかったんですか?


みなみかわ「毎日考えてました。もうこんなん無理や、って。でも、その都度誰かが助けてくれたりとか、ここまでやったからもったいねえなっていう気持ちもあった。あとは妻ですね。妻が辞めさせてくれなかったんですよ。『絶対、辞めたらあかん』みたいな感じでした」


――奥様はSNSで営業活動をされる「みなみかわの嫁」として今ではすっかり有名ですね。ご結婚されたのは、その頃?


みなみかわ「12年ですね。だから、そのつらくて何もないときに結婚したから、信頼すべき人ではあります。でも、絶対辞めんなって言われるのがつらかったですね。『もう辞めたいねん』って何回も言ったんですけど、『いや、まだ辞めるな。もうちょっと』みたいな感じでしたから」

切羽詰まって出した“システマ”

――収入が少ない月だってありますよね。

みなみかわ「給料ゼロとか、全然ありましたよ。子供が生まれたら変わるかと思ったんですけど、あんまり変わらなかったですね」


――うーん、そういう状況で支えようっていう奥様はすごいというか…。


みなみかわ「なんか美談みたいになってるんですけど、追い込まれた感じがあったんです。これはハラスメントだと思いましたよ(笑)。僕自身としては、辞めたいって言ってんねんから辞めさせてくれよっていうイラつきはありましたしね」


――(笑)。もう少しもう少しと頑張ってこられて、その頃ですかね、「システマ」で人気が出たのは。


みなみかわ「16年に『ざっくりハイタッチ』(テレビ東京)が決まるんですよ。番組のオーディションで一発ギャグとかいろんなネタやったんですけど全然ハマらなくて、『他に何かないですか』って言われて、頭フル回転させて『システマっていうのやってて…』って披露したらパッてウケたんですよ。で、『それやりましょう!』ってなりました。切羽詰まって出したって感じでしたね」


――ロシアの軍人が作った〝殴られても蹴られても痛くない格闘技〟っていう前フリで、みなみかわさんの実は痛そうなリアクションや、「全然痛くないです」っていうコメントの面白さにMCの千原ジュニアさんや『フットボールアワー』の後藤(輝基)さんが大爆笑してました。


みなみかわ「すぐにシステマに行かずに、前フリを作って構築していく流れを全部ジュニアさんが作ってくれたんです。あれがシステマをテレビでやった最初にして、ゴールでしたね。システマって僕は受けることしかできないので、やってくれる先輩によってはだいぶ質が変わるんです。だから、〝リトマス試験紙〟みたいに言われたことありますね。いじる側の力量が出ると」


――確かにそうですね。


みなみかわ「いろんな先輩がいじってくれて面白かったですけど、ジュニアさんが一番キレイな流れだと思いましたね、僕的には」

「腐り芸人」で再ブレーク

――システマ芸人としてブレークした後、コンビを解散しピンになられましたね。

みなみかわ「19年ですね。解散したときに引退も考えたんです。でも、もうちょっとやってみようと思ったのは、もちろん嫁に言われたってのもありますけど、ピンでやってみてダメやったら、ほんまに後悔なく終われるなと思ったんですよ。実際終わるつもりで、その後の2年間は〝終活〟みたいな感じでした」


――ところが、ヒコロヒーさんとのコンビで『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)に出て準々決勝に進み、再び注目されました。


みなみかわ「ピーマンズスタンダード時代にあんなに頑張ってダメだったのに、ライブでちょっとやったヒコロヒーとの漫才のネタで準々決勝に行けました。なんやねんと思いましたよね(苦笑)。僕の座右の銘じゃないですけど、『この世界に残ろうとした奴から辞めていく』って言葉が大好きなんです。これは大竹まことさんの言葉なんですけど、聞いたときにめちゃくちゃ腑に落ちたんです。つまり『お笑いとして、そのときの自分がいいと思ったことをやった方がいい』ってことじゃないかと、僕は解釈してます」


――なるほど、深いですね。


みなみかわ「ヒコロヒーとYouTubeで配信していた松竹の悪口が話題になって、腐り芸人で呼ばれた『ゴッドタン』(テレビ東京)には、俺は今日ここで辞めますっていう気持ちで出たんですよ。それが面白いって逆に捉えてもらえました」


――みなみかわさんの腹が据わっている感じは、それが由来なんですね。ちなみに今後の展望などは?


みなみかわ「6月に単独ライブがあるんです。変な出方をした僕にしかできないネタがあるんじゃないかなと思ってます。テレビってやっぱり信用できないっていうか、いつなんどき呼ばれなくなるかもって思いもあります。YouTubeでもできるような自分の主軸となるネタをできるようになって、全国を回れたらいいですね」


(文/牛島フミロウ 企画・撮影/丸山剛史)
みなみかわ 1982年、大阪府出身。大学在学中に放送作家志望で松竹芸能タレントスクール大阪校に入り、ピン芸人としてスタート。コンビ『ピーマンズスタンダード』を経てR-1グランプリ2008で準決勝進出。しかし仕事はなく、19年にピン芸人『みなみかわ』として活動をスタートさせると「腐り芸」が注目され、現在はバラエティー番組に引っ張りだこの多忙な日々を送っている。