(画像)Dziurek/Shutterstock 
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ファイティング原田「より努力している者、苦しんだ者が勝つ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第53回

今年4月に80歳となったファイティング原田は、多くの国民を熱狂の渦に巻き込んだ伝説のプロボクサーだ。休むことなくパンチを繰り出すラッシング・パワーで、デビューから連戦連勝。日本人として初の世界2階級制覇を成し遂げた。


現在、ボクシング界ではWBA、IBF、WBOの3団体が17階級、WBCが18階級の世界王者を認定している。複数団体のタイトルを1人で保持しているケースもあるが、格上げされたスーパー王者や負傷による暫定を含めれば、主要4団体だけで70人を超える王者が乱立する。


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戦後間もない1952年に、日本人で初めて世界王座を獲得した白井義男。しかし、この当時、世界規模のボクシング団体は一つしかなく、階級も白井のフライ級を含め全8階級だった。つまり当時のボクシング世界王者は、わずか8人しかいなかったわけである。


今と昔の強さの比較などはさておき、希少性となればやはり8人のほうが、王者の価値は高くなる。まさしく世界のトップであり、その一角に白井が加わったことは、敗戦に打ちひしがれた日本人を大いに勇気づけることとなった。


そんな白井の失冠から8年後の62年10月に、弱冠19歳のファイティング原田がポーン・キングピッチ(タイ)を破り、世界フライ級王座を獲得した。


白井の戴冠時にはまだテレビ放送自体がなかったが、53年2月にNHKが放送を開始し、59年4月には現在の上皇陛下の御成婚中継もあって、家庭用テレビは急速に普及。ボクシング中継が週8度もあるという黄金期、主役は原田だった。

有名漫画が摸倣した原田の逸話

ひたすらパンチを放ち続け、前に出ることをやめない。欧米のボクシング評論家から「狂った風車」とまで呼ばれた鬼気迫るラッシュに、ほぼすべての日本人が熱狂し、世界戦の視聴率は6度も50%を超えた(うち2度は60%超え)。そのため、原田にまつわる数々のエピソードは後年の映像作品や漫画などに多大な影響を与えている。

世界初挑戦のとき、原田は来日したキングピッチを空港に出迎えに行ったが、王者は「原田など眼中にない」と言わんばかりで完全に無視された。原田はのちに「あのときは本当に頭に来た。この野郎には絶対に勝ってやると思った」と振り返っているが、こうしたドラマなどでよく見るシチュエーションも、原田の実体験に由来したものである。


漫画『あしたのジョー』の「減量に苦しむ力石徹が水を飲まないように、水道の蛇口を針金でしばった」という有名な場面や「あまりの喉の渇きから水洗トイレの便器の水を飲もうとした」などの状況描写も、やはり原田の実体験が元ネタになっている。


実際、原田の減量は過酷を極め、バンタム級王者のエデル・ジョフレ(ブラジル)に挑戦した65年5月の世界戦では、通常の体重が65キロ以上もありながら、バンタム級リミットの53.5キロまで体を絞っている。それでも日本人として初の2階級制覇を成し遂げることができたのは、とにかくボクシングが好きだったからに違いない。

3階級制覇の夢砕く疑惑の判定

原田のトレーニングと減量について、周囲の関係者は「人間の限界を超えている」と語ったものだが、原田にとっては「やるのが当然」だった。世界初挑戦のときには「苦しい練習を積み重ねてきて、それをやっと発散できるんだ。楽しくないはずないじゃないか」と、入場の花道で笑顔を見せたという。

バンタム級転向後、練習嫌いで知られたライバルの青木勝利に3RKO勝ちした際には、「俺が青木に負けたら努力するということが意味を失う。一所懸命に練習しているボクサーが、ろくに練習しないボクサーに負けるなんてことがあったら、おかしいじゃないですか」とも語っている。


また、原田は「ボクサーにとってセックスはマイナスになる」という古い信仰を持ち、27歳で引退するまで童貞を貫いたともいわれている。「より努力している者、苦しんだ者が勝つ」という言葉は、まさしく原田のボクシング人生そのものだろう。


69年7月には前人未踏の3階級制覇を目指し、WBC世界フェザー級王者のジョニー・ファメション(オーストラリア)に挑戦。敵地のシドニー開催ということもあり露骨な地元びいきの判定で敗れたが、それでも試合後、屈託のない笑顔で王者を称えた原田のスポーツマンシップは、現地でも高く評価されたという。


しかし、原田は翌70年1月に日本で行われた同王者との再戦で、KO負けを喫して引退を決意。


「幸福なリング生活だった。打ち込んできたリングに別れを告げるのは寂しいが、惜しまれるうちが花。ここらが潮時と思い決心した」と語った。


引退後もジムを経営し、日本プロボクシング協会の会長を21年にわたり務めた原田。その多大な功績から「ファイティング」のリングネームは、今もプロ野球の永久欠番ならぬ「欠名」扱いとなっている。


《文・脇本深八》
ファイティング原田 PROFILE●1943年4月5日生まれ。東京都出身。60年に笹崎ジムからプロデビュー。日本人として初めて世界フライ級、バンタム級の2階級を制覇した名王者。95年には国際ボクシング殿堂入りを果たした。生涯戦績62戦55勝(22KO)7敗。