(画像)CC7/Shutterstock
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『性産業“裏”偉人伝』第11回/女の運び屋~ノンフィクションライター・八木澤高明

覚醒剤などの違法薬物、密輸品など、世の中にはいろんな種類の運び屋がいる。今回取り上げるのは、東南アジアから現地の女性たちを運ぶことを生業とした男である。


その男の名前は、佐藤。年齢は52歳。現在は、タイやカンボジア、時には日本を転々としながら生活している。


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私が佐藤と知り合ったのは、今から20年ほど前のことだ。当時、佐藤はタイ人の女性たちを専門に日本へと運ぶ、運び屋だった。


かつてタイ人が来日する場合はビザが必要だった。収入や預金などの証明、日本での滞在費用をカバーできる保証人が必要とされるなど、一般のタイ人にとってビザ取得は困難を極めた。


日本政府がタイ人へ高いハードルを課していたのは、タイと日本の間に横たわる経済格差ゆえに、日本に不法滞在し一攫千金を夢見るタイ人が後を絶たなかったことにあった。日本で体を売り、「ジャパンドリーム」を夢見るタイ人女性たちが少なくなかったのだ。


当時、日本各地にはタイ人の娼婦たちが体を売っていた色街が数多く存在していた。その色街へとタイ人女性を送り届けることが佐藤の生業だった。


十数年ぶりに会った佐藤だが、脂ぎったボザボサ頭に薄汚れたTシャツを着て、東南アジアの安宿からひょっこり顔を出しそうな風貌は当時と変わっていなかった。


そもそも佐藤が運び屋となったきっかけはなんだったのだろうか。


「日本を出てバンコクの日系企業で働きながら暮らして、3年が過ぎた頃でした。日本人が経営する雀荘がバンコクにあって、そこで負けが込んで、ツケでやるようになり、バンコクでの収入では返せないほどになってしまったんです」


店主は佐藤が切羽詰まった頃合いを見定めたように声を掛けてきたという。


「運び屋をやらないか? そうすれば、すぐに借金を返せるよ」


当時の佐藤の月収は、日本円で15万円ほど。借金は100万円近くになっていた。麻雀だけでなく女遊びもしていたこともあり、借金を返済できるアテはまったくなかった。


「1回女性を運べば、20万円もらえると言われました。月に2回でも3回でもやれるというので、運び屋になる決意をしました」


佐藤が知る限り、当時のバンコクには、運び屋の元締めが3人いたという。


タイ人が2人と、日本人が1人。佐藤が紹介されたのは日本人の元締めだった。


「雀荘の主人と日本人の元締めが知り合いだったというか、グルになって駒になる人間を探していたのかもしれません。結果的に雀荘が裏稼業への入り口になっていました。ただ、3人の元締めの中で日本人は仕事が丁寧だったので、捕まるリスクはタイ人のそれより低かったのが幸いでした」

当時の入管は〝ザル状態〟

女性を運ぶ際、とにかく1人でも多く日本に送るため時間が優先され、パスポートをわざわざ作ることはせず、日本行きを希望する女性と似た人物のパスポートを用意して渡航したという。タイ人の元締めたちは、その手間すら惜しむため、パスポートの写真を貼り替えて偽造パスポートを頻繁に利用していた。

今では指紋認証などがあるためそんな手法は通じないが、当時は一般的だった。


佐藤が運び屋としてデビューしたのは、ちょうど、サッカーの日韓ワールドカップが共催されようとしていた頃のことだった。


「観光などで外国人を多く受け入れようという入管の考えがあったのかもしれませんが、ほとんどザル状態でした。私の知る限り、30人ほど日本人の運び屋がいましたが、誰も捕まった者はいませんでした」


来日するタイ人のほとんどは、400万円から500万円の借金を背負ってビザを手配してもらい、日本各地の売春地帯で働こうとする女性たちだった。中には、稀に売春ではなく、日本人男性と愛人契約をして来日する女性もいたという。


佐藤の仕事は、女性と一緒に飛行機に乗り、元締めからの指示で、入国審査の際に一緒にカウンターに並ぶケースや少し離れた場所から見守り、検査終了後に合流することだった。空港を出たところで迎えに来た引受先の人間に女性を渡し、仕事は終わりとなる。


時には、空港ではなく、売春小屋まで送り届けたこともあったという。


「一度、30代の美人でもない子を長野県の温泉地のスナックに送りました。あとから聞いた話ですが、働いた初日に地元の土建屋の社長に見初められ、1日で借金を完済したそうです。今では考えられない、景気のいい時代だったんですね」


元締めたちは、女性を送れば送るほど儲けになることもあり、日本人の元締めは年間1億円は稼いでいたという。佐藤は20回ほど日本に女性を送って、借金を完済し、運び屋稼業から足を洗った。


そして時代は流れ、今では入国審査は厳格化され、タイ人には(15日以内なら)ビザが不要となったため、わざわざ借金を背負って来日する女性はいなくなり、運び屋も消えた。そして日本人の元締めも廃業したという。


時代の狭間に一瞬だけ咲いた徒花。それが運び屋だった。
八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 神奈川県横浜市出身。写真週刊誌勤務を経てフリーに。『マオキッズ毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回 小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を受賞。著書多数。