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川藤幸三「給料はいらん。置いてくれるだけでいい」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第52回

Danny E Hooks
(画像)Danny E Hooks/Shutterstock

今年7月に74歳の誕生日を迎える〝球界の春団治〟川藤幸三は、記録よりも記憶に残るプロ野球選手の代表格だ。今もなお自身のYouTubeチャンネル『川藤部屋』を中心に、阪神タイガース愛にあふれる面白トークを披露している。

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1995年ごろにテレビ放送されたビールのCMでの一幕。大衆食堂らしきところでビールを飲むサラリーマン(桂ざこば)が、テレビの野球中継を見ながら「川藤出さんかい!」と叫ぶと、画面には川藤幸三が代打で登場する。それを見てサラリーマンは「ホンマに出してどないすんねん」と嘆く…。

これと同じような野次は、現実にも甲子園球場の観客席でたびたび聞かれたという。通算211安打、16本塁打。実働18年にも及ぶ現役生活で、中堅クラスのレギュラー選手が2シーズン程度で達成できる数字しか残していない。

平均的な数字よりも、ここ一番での勝負強さが最大の魅力。成績は決して一流とは言えないが、それでも愛さずにはいられない。阪神ファンにとっての川藤とは、そんな存在だった。人呼んで「球界の春団治」。春団治とは戦前の上方落語界において、自由奔放な芸風と人柄で絶大なる人気を誇った天才噺家の初代桂春団治を指す。

78年から81年の4年間は代打中心の出場ながら、打率3割超え。左腕キラーとして各チームのエース級や抑えの切り札を相手に、通算6度のサヨナラ打を放っている。

どうしても阪神で野球を続けたい

サヨナラ打ということはもちろんホームゲーム、つまり甲子園球場での試合が中心。当時はBクラスが当たり前だった「ダメ虎」時代で、江川卓の入団トラブルや江本孟紀の「ベンチがアホやから発言」など、負の話題が多かった時期の勝ち星は、他チームの1勝よりずっと価値があった。

後年の姿からは想像できないが、川藤は高校3年時の67年に福井・若狭高校のエースとして甲子園に出場。春はエース、夏は外野手で、ともに4番打者として出場したが、いずれも初戦で敗退している。

同年秋のドラフトでは内野手として9位指名を受け、阪神タイガースに入団したものの、決して期待された選手ではなかった。それでもシーズン終盤には高卒ルーキーながら9番・遊撃手としてスタメン出場。初安打が初本塁打という華々しい一軍デビューを飾っている。

2年目に外野へコンバートされると徐々に出場機会を増やしていき、ウエスタン・リーグでは最多盗塁を記録するなど俊足で鳴らした。しかし75年の春季キャンプでアキレス腱を損傷し、以後は代打中心の起用となった。

82年ごろから代打としても成績を落とし始めた川藤は、安藤統男監督の下、83年オフに戦力外通告を受ける。だが、川藤はこのとき「給料はいらん。(阪神のベンチに)置いてくれるだけでいい」と訴えて、結局、一軍最低保障額の年俸で残留することとなった。

どうしても阪神で野球を続けたいという川藤の猛虎魂に、上岡龍太郎ら阪神ファンの著名人たちが感激し、減俸分を補うためのカンパを集めた。しかし、これを渡そうとしたところ、川藤は「気持ちはありがたいけど、それはできまへん。このお金は自分のためではなく、ファンのために使わせていただきます」と、甲子園球場の年間予約席を購入。体の不自由な人たちをそこに招待したという。

オールスター戦初出場で大奮闘

虎党伝説のシーズンとなった85年、阪神の代打には移籍組の長崎啓二や永尾泰憲が控え、川藤は3番手といった状態だった。同シーズンの成績も28打数5安打にとどまったが、それでも全試合でベンチ入り。ランディ・バースに将棋を教えるなどチーム融和に努めて、阪神38年ぶり(2リーグ制後は初)の日本一に一役買うこととなった。

この当時を振り返って川藤は「控えがキツいと思ったら辞めたらええ」「誰しも選手はレギュラーを目指してやって、力がないから控えになっとる。ただ、それでもそれぞれの役割っちゅうもんがあるんです」などと話している。翌年に吉田義男監督の推薦で初のオールスター戦出場を果たしたのも、そうした川藤の働きへの感謝の思いがあってのことに違いない。

オールスター第2戦の大阪球場。9回表2死走者なし、3-3の同点の場面に代打で登場した川藤が、小野和義(近鉄)の投じた真ん中高めの直球を振り抜くと、打球は左中間へ。

一塁コーチの王貞治監督(巨人)は、川藤の背中を押すようにして二塁へ向かわせたが、脚がうまく回らない様子で全力で走り込むもタッチアウト。塁上で照れくさそうにへたり込む川藤の姿を見て、アウトを宣告した塁審も代打に送った吉田監督も、そして観客席のファンも「川藤らしい」と笑顔を見せていた。

「同点やし、ええとこ見せなぁと走ったんやが、慣れんことするもんやないわ」と頭をかいた川藤だったが、観客からの声援は同日にオールスター初本塁打を放った清原和博(西武)へのそれにも劣らなかった。

同年オフに引退した川藤は、現役最後のインタビューで「昨日のことは忘れ、明日のことは考えずやってきた」と語った。まさしく「記録ではなく記憶に残る名選手」であった。

《文・脇本深八》

川藤幸三
PROFILE●1949年7月5日生まれ。福井県出身。若狭高から67年にドラフト9位で阪神入団。俊足巧打の野手として期待されたが、アキレス腱損傷の大けがを負ったことから代打に専念。常に全力を信条としたプレースタイルで人気を博した。

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