『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』講談社 
『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』講談社 

『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』著者:伊藤博敏~話題の1冊☆著者インタビュー

伊藤博敏(いとう・ひろとし) ジャーナリスト。1955年福岡県生まれ。東洋大学文学部哲学科卒業。編集プロダクション勤務を経て、1984年からフリーに。経済事件などの圧倒的な取材力では定評がある。著書には『黒幕 巨大企業とマスコミがすがった「裏社会の案内人」』(小学館)などがある。
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――『同和のドン』には、上田藤兵衞氏の半生が描かれています。任侠の世界ともかなり関係が深かったようですね。


伊藤 上田藤兵衞氏は血気盛んな10代後半を京都・山科で過ごします。狭い盆地状の山科地区には500人もの任侠界の人がいて、日常、違和感なく付き合っていたそうです。当時、実家の材木商『若藤』が倒産し貧困のなかにいた上田少年にとって、知力と腕力でのし上がることのできる任侠界は魅力だった。また、実家の隣には「ナルさん」と呼ばれる実業と任侠の狭間で生きている親代わりのような人がいて、「商売」の面白みを教えてくれました。高校は中退し、「ナルさん」の不動産仲介や人材派遣の手伝いをしながら喧嘩三昧の日々を送るようになります。


――山口組五代目・渡辺芳則組長とは刑務所の「同級生」だったとか。上田氏はなぜ任侠の世界に入らなかったのでしょうか?


伊藤 上田氏は10代後半から20代にかけて、少年院を一度、刑務所を二度、経験します。神戸刑務所での二度目の服役で知り合ったのが当時、山口組三次団体『健竜会』の会長だった渡辺氏です。「話していると時間を忘れた」というから気が合ったのでしょう。先に渡辺氏が出所。1981年10月に服役を終えた上田氏は、すぐに渡辺氏の元を訪ねます。渡辺氏は山口組にスカウトしたかったのですが、上田氏は「藤兵衞(以前は高雄)」と改名させて『若藤』の再興を託して亡くなった母親の思いを伝え、渡辺氏から「分かった。お前はその道で頑張れ」という言葉をもらいます。

マスメディアに求められていること

――大物政治家とも太いパイプを築いていますね。

伊藤 上田氏の自由同和会は自民党系ということもあり、政権と対立することなく融和的に法整備を中心に同和運動を進めてきました。そのリード役が、2018年に92歳で亡くなった野中広務・自民党元幹事長です。京都の同和地区出身の政治家ということもあって、上田氏は連帯して人権擁護法案成立へ向けた運動などに取り組み、野中氏は亡くなるまで自由同和会京都府本部の最高顧問でした。


――メディアは同和問題に及び腰です。今後どのような報道の在り方が求められていると思いますか?


伊藤 部落差別問題にはタブーが多く、取り組むのが難しい分野であるのは確かです。しかし同和対策事業特別措置法が02年に役割を終えて21年が経ち、同和地区の環境は改善され、差別意識もかなり取り除かれています。タブー視することなく、問題があれば提起する姿勢がマスメディアに求められていると思います。


(聞き手/程原ケン)