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村田英雄“先手必勝即リーチ!”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

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昭和生まれなら誰もが知っている村田英雄。1991年に妻(ユイ子)を亡くし、心労から持病である糖尿病が悪化して以降、晩年は苦難の日々が続いた。中でも96年、右膝下12センチから切断するという大手術は、歌手生命の危機でもあった。

気丈にリハビリを耐え抜いた村田は、同年8月に行われた『三橋美智也追悼公演』において、「先輩の舞台で座ったままでは歌えない」と、義足をつけて立ち上がり3曲を熱唱した。

年齢的には三橋が1歳年下だったが、常に歌謡界の先輩という意識で接していた。互いにギャンブル好きという趣味の面でも馬が合っていただけに、三橋の死は大きな打撃だったに違いない。

70年代のディスコ・ブームの際には、深夜ラジオで「ミッチー」三橋と「ムッチー」村田が、若者の間で大人気を呼んだこともある。

元来、村田は男らしさに溢れた苦労人として人望が厚く、東映任俠映画の人気シリーズ『兄弟仁義』では、7歳年下の北島三郎を終始立てていた。北島のギャンブル熱も村田と遜色なく、馬券の購入額を競うほど豪快な買いっぷりを見せていた。

さて、村田の麻雀はイメージ通り豪放磊落。よほどのことがない限り、攻めて攻めて攻めまくる。それもポン、チーの食い仕掛けではなく、徹底したリーチ戦術で押していく。

“追い込みのヒデ”の爆発力

村田の麻雀哲学は〝リーチ宣言ほど有力な手段なし。一度でもツモの回数が残っていれば、迷わずリーチをせよ!〟である。なぜリーチにこだわるかといえば、リーチをかけられると、誰しもが振り込みたくないという心理が働く。危険牌を握れば手を回し、回しきれなければ降りてくる。

先手必勝。相手の機先を制することこそ、必勝の極意であるという村田流は、一見荒っぽいようだが確かに理にかなっている。

さらに、村田のリーチ戦法の特徴は、決して手を回さないこと。一つ変わればリャンメン待ち、あるいは三色やタンヤオなどの手役に変化する――そんな可能性が見えていても我関せず、テンパイすれば、即リーチ。そこには何の迷いもない。

カンチャン、ペンチャン、ソバテン、お構いなしのテンパイ形だから、逆に読みにくい。どんなに不自由な待ちであろうとも、1回きりのツモのチャンスに懸けて、リーチに臨んでくるから恐ろしい。

爆発力には屈指のものがあり、自ら〝追い込みのヒデ〟と称するくらい逆転の威力を秘めている。長期公演の折にはバンド連中や裏方にも声をかけて、麻雀大会を主催することも少なくない。全員の参加費用は、すべて村田持ちのため、みんな喜んで加わる。

会費制にしたのでは、ありがたみがない。ゲーム代から対局中の飲み物、豪華な賞品、さらに夜食に至るまで気配りを見せれば、自然と後輩たちはついてくるものである。

ビートたけしが創作した「俺が村田だ!」

83年には、かねてからネタにされていた『ビートたけしのオールナイトニッポン』に、満を持して登場。怒るどころか豪快に笑い飛ばし、「いやぁ、たけちゃんや聴いてくれるみなさんが、こうして笑ってくれるということは、芸人冥利に尽きるよ…」と、うれしそうに語っていた。

ビートたけしが創作した「俺が村田だ」というフレーズは、清水アキラが86年ごろから始めた村田のものまねでさらに広く浸透した。これを受けて89年には村田自身が、シングル『あゝ万次郎』のカップリングとして『俺が村田だ』という曲を収録している。

99年から04年まで、サンテレビで『よしもと麻雀倶楽部』という番組が放送されていた。レギュラー出演者としてオール阪神、前田五郎がおり、灘麻太郎が解説、場合によっては灘が卓に入ることもある、オールよしもとのタレントで対局を行っていた。

当時、村田の本拠地は大阪で、番組をいつも見ていたらしい。どうしても一度、出演させてほしいという申し込みがあり、特別にメンバーが組まれた。

村田、吉本興業の林裕章社長(当時)、桂三枝(現・文枝)、灘の4人で、半チャン1回戦、リーチ、一発、裏ドラありの〝ありあり〟ルール。さらに、しゃべりもありという、にぎやかな麻雀である。

逝去3カ月前の楽しい麻雀

東1局、親の灘を尻目に、南家の村田が4巡目と早いリーチをかけた。

三枝「早いリーチは1、4索とちゃいまっか?」

林「そんな分かりやすい待ちとは違うやろ」

村田「そうですね、言えませんねぇ…」

と終始なごやかなムード。

2巡後5筒ツモ切りの後、灘が3筒をツモ切る。「ロン!」と村田、待ちはカン3筒。裏ドラが1枚乗って、2600点のアガリ。

三枝「格言にいわく〝南家は親ごろしの先兵たれ〟でんなぁ」

村田「いやぁ、たまたまですよ…」

と言っていたが、このアガリでツキを呼んだのか、次局、親で6巡目、3、6万待ちのタンピン手をリーチ。3巡後に3万をツモり、裏ドラ5万が乗り満貫。

灘「強いですねえ…」

三枝「カモの先走りという言葉も(笑)」

村田「ツキですよ」

ニコニコ顔でかわしたが、結果は村田の一人勝ちで終わった。

村田は3カ月後、この世の人ではなくなった。

「この日の麻雀が楽しくて、対局風景を思い出すたびにニヤニヤしている」

死の直前までそう話していたという。

(文中敬称略)

村田英雄(むらた・ひでお)1929(昭和4)年~2002(平成14)年。父親が浪曲師のため、5歳で初舞台を踏む。29歳のとき作曲家・古賀政男に見いだされて歌手に転向。58年に『無法松の一生』で歌手デビュー。『王将』『人生劇場』などのヒットで戦後歌謡界をリードした。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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