松前ひろ子(C)週刊実話Web 
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『令和の“応演歌”』松前ひろ子~交通事故での大怪我で8年のブランクからの再デビュー(前編)

――松前さんは、もともと北海道の裕福な家庭で生まれ、その後上京。1969年『さいはての恋』で歌手デビューしました。歌手を志したきっかけや理由はなんだったのでしょうか?


松前 片田舎ですが、比較的裕福な家庭に生まれ育ち、子供の頃は三味線にお琴、踊りを習いました。まだカラオケがない時代で、生バンドで歌う〝街ののど自慢大会〟で歌い、優勝をしては商品をいただいたんです。


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歌に対しだんだんと自信がついてきたとき、従兄である北島三郎さんが函館に来た際、楽屋へお邪魔しました。そこで北島さんから「ひろ子! ちょっと歌ってみろ!」と言われてアカペラで歌うと、「おーおー」と北島さんが唸ったのです。その言葉を聞いて私は「うまい」とお墨付きをもらったと勘違いしてしまったんです。


両親に「歌手になりたい」と言っても反対されるのは目に見えていたので、ある日、母の枕元に置き手紙をして家出をしました。


上京し北島さんの自宅に伺うと、「なんで来たんだ。過保護に育ったお前はこの業界で生きていけない」と断られました。しかし、家出をして上京した私には帰る場所がないので、しがみつき弟子にしていただきました。その日から従兄ではなく、先生と弟子の関係になりました。


内弟子を3年間経験した後、上京していた姉妹3人での生活が始まりました。生活のため、初めて新宿の高級な喫茶店でのアルバイトを経験したんです。その後、村田英雄さんなどの前唄を歌わせてもらうようになり、クラウンレコードの専属歌手テストに合格し、1969年にデビューしました。

デビューから2年後の悲劇…

ところが、デビューから2年目、乗っていたタクシーが正面衝突事故を起こし、顎を怪我したんです。日常会話もままならないほどの大怪我を負いました。もちろん、歌は歌えなくなってしまったんです。

怪我で休んでいる間、北島さんからの薦めで作曲家の故・中村典正と出会い、結婚に至りました。その後、3人の子供にも恵まれ幸せをいただきました。


怪我はひどく、初めは箸が入るほどしか口が開かなかったんです。リハビリを続け、日常会話ができるようになるまで5年。さらに歌が歌えるようになるまで3年の計8年も掛かったんです。


――8年間のリハビリ後、『祝いしぐれ』や『初孫』などの曲をヒットさせますが、すぐに再デビューに至ったのでしょうか?


松前 いえ、8年間のブランクは大きく、どこのレコード会社へ行っても断られる日々でした。そんなとき、東芝EMIから声を掛けていただいたんです。その後は、マネジャーがいない時期もあり、1人で全国各地を飛び回ったんです。当時は、8トラックのカセットテープを持ち歩いていましたね。『北島三郎』という大きな看板がないので、〝1人で各地を歩くのはこんなにも辛いものか〟と痛感しました。


良い時期も悪い時期も1人で切り開いてきたので、自分自身を強く、たくましく成長させたと思います。今では、悲しい涙が嬉しい涙に変わりました。人の優しさには今も変わらず感謝の気持ちです。


(以下、後編へ続く)
まつまえ・ひろこ 北海道上磯郡知内町出身。従兄である北島三郎の内弟子として修業後、1969年にデビュー。その後、大怪我を負うが、8年後、再デビュー。今年5月10日『居酒屋 夢あかり』をリリース。