渡哲也さん (C)週刊実話Web
渡哲也さん (C)週刊実話Web

渡哲也「人工肛門」「酸素吸入器」でも被災地ボランティアを続けた“タフガイ”【著名人の壮絶な闘病8】

空手二段の日活アクションスターとして1965年に銀幕デビュー。会見でいきなり瓦5枚を割り、「第二の石原裕次郎」のキャッチフレーズで売り出されたタフガイだ。


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しかし、74年には大河ドラマ『勝海舟』の主役になったが、肋膜炎で降板。肝機能不全なども併発して9カ月の長期入院を余儀なくされた。


翌年にも、映画『仁義なき墓場』の撮影中に体調を崩し、東大病院に5カ月入院。当初は病名が分からず、薬の副作用にも苦しんだが、のちに膠原病と診断されたという。


「89年には『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の撮影でヘリコプターからの着地に失敗。左足の筋を損傷しているにもかかわらず、無理して撮影を続行したため後遺症が残った。その後は足を引きずって歩いていましたよ」(芸能記者)

「俳優人生が終わったと思った」

91年には直腸ガンが見つかり、直腸を25センチ切り取ったため、人工肛門になった。

「このときは、俳優人生が終わったと思ったそうです。今でこそ、公共施設のトイレには人工肛門になった人のための設備がありますが、当時はまだまだ環境が整っていなかった。人前に出る仕事なだけに、想像を絶する苦労があったと思います」(同・記者)


2015年6月には急性心筋梗塞で入院し、手術を受けている。


「持病の肺気腫や喘息などの呼吸器系の疾患も悪化。晩年は酸素吸入器をつけて生活していました。まさに満身創痍の状態で、裕次郎さん亡き後の石原プロモーションを守り抜いたのです。常人には決して真似のできない精神力の持ち主だったんです」(同・記者)


そんな状態でも、大規模災害などが起こると石原軍団を率いて真っ先に被災地に駆けつけ、「炊き出し」などのボランティアに従事。05年には紫綬褒章、13年には旭日小綬章を受章した。


『西部警察』で演じた角刈りサングラスの大門部長刑事のイメージそのままに、どんなに苦しい治療も耐え抜いた渡さん。今ごろ、裕次郎さんに天国で労われているはずだ。