城之内早苗(C)週刊実話Web 
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『令和の“応演歌”』城之内早苗~「コブシが回っている」と注意されたおニャン子時代(前編)

――城之内さんは、もともと『おニャン子クラブ』の一員としてデビューし、活躍します。アイドルとしてデビューした経緯は?


城之内 実家が茨城県で、幼い頃は8トラックのカラオケが流行っていたんです。父はスナックでカラオケを歌うのが好きでした。民謡ブームもあり、母は民謡が好きだったんですね。それで母と民謡を習い始めたんです。民謡を歌う子供自体が珍しいからか、周りの大人に褒められるんですよ。それが嬉しくて、だんだんと上達していったんですね。それでオーディションを受けたんですが、受からなかったんです。


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そのとき、CBS・ソニーさんから声を掛けていただいて、2週に一度、東京までレッスンに通うことになったんです。まだ中学2年生だった私は1人で上京するのが自立しているように感じ、嬉しくて原宿や秋葉原まで足を伸ばし楽しんでいました。


あるとき、『夕やけニャンニャン』のオーディションを受けることになったんですが、ソニーから受けたのは5人。河合その子ちゃんと私以外の3人は、当時で言う〝今風な女の子〟。でも合格したのは、その子ちゃんと私だったんです。

アイドル歌手から演歌歌手へ

――もともと演歌歌手を目指していたのにアイドルグループの一員になった。動揺はなかったですか?

城之内 受からないから、人数合わせだから…と言われてオーディションを受けたんです。他の子たちとも二度と会わないと思い、東京タワーにのぼり、記念撮影までしたくらいです。ですが結局、合格したので、周りも私もビックリしましたね。転校に引っ越しと、怒涛の日々の中でデビューを迎えました。


デビュー曲の『セーラー服を脱がさないで』ではダンスの振り付けがあったんですけど、私の育った環境は学校のフォークダンスか、父がスナックで踊るチークダンス、後は盆踊りくらいしか馴染みがなかったので、居残りで練習することもしばしばありました。レコーディング中も、急に音が止まり、「この中にコブシ回っているやつがいるぞ」とディレクターに注意されたくらいでしたね(笑)。


――その後、1986年に『あじさい橋』でアイドル歌手ながら演歌歌手としてもデビューします。アイドル歌手と演歌歌手の二足の草鞋で悩んだことは?


城之内 演歌の現場へ行くと「アイドルちゃん」「おニャン子ちゃん」。アイドルの現場に行くと「演歌だもんね」と言われ、どちらへ行けば良いのかと迷子になったこともありました。演歌の先輩方は、歌詞を間違わないし、上手いのが当たり前の世界。それまで歌は上手いほうだと思っていましたけど、『井の中の蛙大海を知らず』だったんです。でも、二足の草鞋を履いての活動は1年半くらいで、おニャン子は解散してしまったんです。


それからは「あじさい橋のおニャン子の城之内早苗」から「城之内早苗のあじさい橋」と、皆さんに思ってもらえることを目標にしてきました。


――その目標は達成できました?


城之内 「お母さんやお父さんがおニャン子クラブのファンでした」と言われる世代、おニャン子を知らない世代が出てきてようやく逆転できたと思いますね。


(以下、後編へ続く)
じょうのうち・さなえ 茨城県神栖市出身。1985年『おニャン子クラブ』でデビュー。86年『あじさい橋』でソロデビュー。22年『しあわせワルツ』をリリース。5月17日『城之内早苗バースデープレミアムライブ』をMZES東京(東京都港区赤坂)にて開催。