清原和博 (C)週刊実話Web
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清原和博「巨人を倒して日本一となるのがプロ入りの目標でした」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第48回

2020年6月に覚醒剤取締法違反の執行猶予が満了した清原和博。徐々に仕事への復帰が進み、自身のYouTube番組や野球評論、また2人の息子が活躍する学生野球の応援などでも、元気な姿を目にする機会が増えつつある。


清原和博について語るとき、名だたるプロ野球界のレジェンドが「もったいない」と口をそろえる。「清原ほどの才能があれば、もっとすごい成績を残すことができたはず」というのだ。


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西武ライオンズに入団してから23年に及ぶ現役生活で、通算成績は本塁打525本(歴代5位)、2122安打、1530打点と超一流の数字を残しながら、「もっとできた」と言われるのは清原ぐらいのものだろう。


リトルリーグ時代からその才能は群を抜いていて、小学生の頃にはすでにPL学園から声がかかっていたという。同校では1年生から4番を任され、5季連続で出場した甲子園で通算13本塁打を放ったことは、誰もが知るところだろう。


打撃練習では、あまりに打球が飛びすぎて先輩たちから目を付けられたため、飛ばさないようにライト方向へ流し打ちばかりしているうちに、逆方向にもホームランを打てる完璧なスラッガーにまで進化した。


プロ1年目の1986年、開幕2戦目となる西武球場での南海ホークス戦。6回から出場した清原は、最初の打席で誘い球を落ち着いて見極めて四球を選ぶと、9回裏の2打席目には西武打線を完封してきた藤本修二が投じた初球、内角ストレートを振り抜いてレフト芝生席に放り込んだ。

高卒1年目で史上最高の数字

ベテランのような落ち着きと、若者らしい思い切りのよさを兼ね備えた大器は、シーズン途中からクリーンアップを任され、最終的には本塁打31本、打率3割4厘、打点78の好成績を残す。いずれも高卒1年目としては日本プロ野球史上最高の数字であった。

だが、その後に清原がこれら数字をすべて上回ったシーズンは一度もなく、打撃3部門のタイトルを獲得することもなかった。そのため「1年目が一番良かった」という評も聞かれる。成績が伸び悩んだ理由としては「遊びすぎで練習をしなかったから」との声も多いが、これは必ずしも正しくはない。


例えばチームメートの渡辺久信は、真夜中に寮の中庭で1時間近く、黙々とバットを振り続ける清原の姿を目撃したことを証言している。清原自身も、手のひらにできた新しいマメのことを記者から指摘された際には、「プロやから、練習するのは当たり前」と話したものだった。


のちにFA移籍した巨人では肉体改造を実行。上半身に筋肉をつけすぎたことが故障につながったとの批判を受けたが、清原としては「子供たちに150メートル級のデカいホームランを見せてあげたいんです。スゲーって憧れる存在になりたいんです」と、純粋な気持ちからの決断だった。


バブル全盛期、寮のある埼玉の所沢からタクシーで東京・六本木まで通っていたのも事実だが、同時に清原なりに至って真面目に野球に取り組んでいたことには違いなく、適切な指導をする人物に恵まれなかったというのが、実際のところではなかったか。


巨人入団の希望がかなわず、ドラフト直後の会見で「今は何も言えません。両親、監督、部長、校長さんらと、いろいろ相談して決めたい」と悔し涙を流した清原は、「汚いやり方で巨人入りした桑田真澄と、純朴な清原」という対比もあり、国民の多くから応援される絶対的なベビーフェイスだった。

西武が渇望した全国区のスター

この頃、長野冬季五輪の誘致に向けてイケイケ状態だった西武グループにとって、そんな清原は球団の人気を全国区に押し上げるための金の卵と目された。そうして実際にも清原の入団初年は、西武球場の年間観客数が166万人超となり、これは当時の球団新記録。パ・リーグ全体でも150万人以上の観客増となった。

しかも、新人らしからぬ成績をしっかりと残し、その後の西武黄金時代に主軸を担ったのだから、誰にも文句を付けられる筋合いはない。


ただ、清原自身も高校時代の厳しい環境から解き放たれ、球団からVIP扱いを受けたことで、舞い上がってしまった部分はあっただろう。入団から間もなくして、先輩たちへまともにあいさつすることもなくなり、これを注意したのは中日から移籍した田尾安志ぐらいしかいなかったという。1年目の6月には早くも写真週刊誌に、年上女性との早朝デートを激写され、門限破りの罰金は数百万円にもなった。


2年目の日本シリーズ第6戦で、勝利を目前にして守備位置で涙を流し、「巨人を倒して日本一となるのがプロ入りの目標でした」という清原の言葉。これは偽らざる本音であったが、その裏でチームメートたちは「何を1人で盛り上がっているのか」と、冷めた気持ちだったとも伝えられる。


いずれにしても、高校時代から新たな成長がほとんどない状態でプロ野球歴代上位の成績を残したのだから、とんでもない才能であったことは疑いようもなく、もしも環境や指導者に恵まれていたならばと、思わずにはいられない。


《文・脇本深八》
清原和博 PROFILE●1967年8月18日生まれ、大阪府出身。PL学園では1年の夏から4番に座り、5季連続で出場した甲子園では優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回。86年にドラフト1位で西武入団。その後、巨人を経てオリックスに移籍し、2008年に引退。