謝鳴 (C)週刊実話Web
謝鳴 (C)週刊実話Web

『令和の“応演歌”』謝鳴~どうしても日本でデビューしたく中国との行き来(前編)

――謝鳴(シャメイ)さんは中国・上海の出身で、中国で歌手デビューし、1991年と1994年にリリースしたアルバムは累計100万枚の売り上げを達成していますよね。中国でのスターの座が約束されていたにもかかわらず、来日しデビューをされています。日本でデビューされた経緯について教えていただけますか?


【関連】『令和の“応演歌”』木村徹二~兄に誘われポップスデュオを結成(前編) ほか

謝鳴 幼い頃からダンスや歌が大好きだったんです。高校を卒業したけれど、その夢は叶わず、空港職員として働いていました。それでも夢を諦めきれずにレコード会社のコンテストに出場し、グランプリを受賞したんです。でも、すぐにデビューできたわけではなく、働きながら、週に1~2回、中国で有名な先生方が教えてくださる歌の学校に通っていました。


卒業するときに、デモテープを作成すると、それがレコード会社の方の目に留まり、アルバム『少女心音』でデビューが決まったんです。運がよかったんでしょうね。


それからしばらくして、当時、中国では日本の文化が開放され始めたんです。日本語の曲を中国の歌手たちが中国語でカバーした曲が大流行したんですね。西城秀樹さんやテレサ・テンさん、山口百恵さんの曲は特にそうですね。日本の曲を聴いているうちに、だんだんと私も日本に憧れを抱いたんです。


――来日を後押しした出来事はあります?


謝鳴 弟が先に来日していたんです。外国の文化、特に日本の文化に触れたい気持ちが強く、私も来日を決心したんです。また、日本であれば、読み方は違っても、同じ漢字なので、なんとなく意味が理解できるのも大きかったですね。

歌で日本語を学んだ…

――来日して、2002年に待望の日本デビューを果たされました。

謝鳴 来日後はアルバイトをしながら日本語の勉強をする日々でした。でも、どうしても日本で歌手デビューしたかったんです。


来日して2年半後、小さいですが、好きなように歌える場所を作りたいと、カラオケスナックをオープンさせました。日本語や中国語の歌を歌い、だんだんと支えてくれるファンの方々との交流が始まったんです。日本語の発音を教えていただいたり、文化の違いも学びました。


やはり、歌で外国語を学ぶと覚えが早いんです。私は忘れるのも早いですけど(笑)。当時は、大変なことも多かったのですが、いろんな方々に支えていただいたお陰で頑張れたんです。


その中のおひとりが、日本でのデビュー曲『Mandara~夢に包まれながら~』の作曲を担当された泉盛(望)先生とお知り合いの方で、ちょうど泉盛先生が求めていた声とピッタリだったようで、日本でのデビューが決まったんです。


――日本デビュー時の心境は?


謝鳴 日本でのデビューが決まるまで、日本と中国を行き来しながら、中国でも歌手として活動していたんです。時には疲れ果てて、日本でのデビューを諦めそうになったこともありましたが、チャンスが訪れ、諦めずに頑張ってきてよかったなと思いましたね。


(以下、後編へ続く)
シャメイ 11月15日生まれ、中国・上海市出身。中国で歌手デビューし、スターの座を約束されるが、単身来日。2002年『Mandara〜夢に包まれながら〜』で日本デビュー。今年2月『Tokyoに傷ついて/契られて…そして』をリリース。昨年は「日中国交正常化50周年記念コンサート」スペシャルゲストを務めた。