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中田英寿「人生は旅であり、旅とは人生である」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第45回

(画像)mooinblack / Shutterstock.com

強靭なフィジカルと正確な技術、ゲームをコントロールする能力のいずれにも優れ、日本のみならず欧州のサッカーリーグでも名をはせた中田英寿。引退後には「旅人」を自称し、多岐にわたる分野で活動の輪を広げている。


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お茶や日本酒を世界に広める活動などさまざまな事業を手掛け、現役引退後も多方面で活躍を続ける中田英寿。現役中の2003年には東ハトの非常勤執行役員CBOに就任して、同社の看板商品である『キャラメルコーン』の新パッケージデザインに関わったこともあった。引退直後には、自身のホームページに「人生は旅であり、旅とは人生である」と題したメッセージを掲載している。

高校時代から「サッカーしか知らない人間にはなりたくないし、いつも好奇心を持っていたい」と話していた中田は、現役の間も資格取得や語学などの勉強に勤しんでいた。そんな中田にしてみれば、「僕には家がない」と言いながらホテル暮らしを続け、興味が向くままいろいろなことに挑戦している今の生活こそ、かねてから望んでいたものなのだろう。事業による収入は現役時代を上回るともいわれるが「僕は好きなことをやっているだけなので、ビジネスは二の次だったりします」とも話している。

引退後も強烈なインパクトを放ち続ける中田だが、日本サッカー界に大きな足跡を残す名プレーヤーであったことは間違いない。

高校3年時にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)と契約して、1995年にプロデビュー。96年にはアトランタ五輪のU-23代表に選ばれ、のちに「マイアミの奇跡」と呼ばれるブラジル戦での勝利に貢献した。

意識の高さゆえ衝突も生まれる

97年に初のフル代表に招集された中田は「ワールドカップに優勝する可能性だって、ゼロじゃない」「最初から負けることを考えてるようじゃ、その時点でワールドカップを戦う資格がない」と、強い気持ちを前面に出してチームの主軸を担った。

98年のフランスW杯出場を決定づけたイラン戦、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」においては、中山雅史、城彰二、岡野雅行の挙げた3ゴールすべてに絡み、チャンスを演出してみせた。

フランスW杯終了後、海外から注目を集めるようになった中田には、アーセナルやユベントスといった名門を含む12のクラブから獲得オファーがあった。そんな中から「ゼロからのスタートを切る」という決意で選んだのは、イタリア・セリエAのACペルージャ。同クラブは決して強豪というわけではなかったが、自身の出場機会などを判断しての結論だった。

今では当たり前になった日本人選手の欧州リーグ進出も、中田の活躍があってのことである。だが、その意識の高さゆえに、他者との衝突を引き起こす場面も多々あった。

2001年のコンフェデレーションズカップ(コンフェデ杯)準決勝、オーストラリア戦で決勝点を挙げた中田は、雨が降りしきる試合後のピッチでフィリップ・トルシエ監督と話し合いを続けていた。

この当時、中田が所属していたASローマは、セリエAで首位争いの真っ最中。もともとグループリーグだけの参加予定で、準決勝まで参加を延長していた中田は、決勝には出場せずイタリアへ戻ることを決めていた。しかし、トルシエは日本初のコンフェデ杯優勝のため、決勝にも出場することを要求した。

「引退」を胸に挑んだドイツW杯

だが、日本人初となるセリエA優勝の瞬間に立ち会うことを希望した中田は、「海外の人だってコンフェデをそこまで重要な大会だと思っていないでしょ?」と言ってのけて、イタリアへ戻る意思を曲げることはなかった。

結果的に中田を欠いた日本は、コンフェデ杯決勝でフランスに敗れ優勝を逃す。トルシエはこれ以来、中田のことを「エゴイストで、自分のことしか考えていない」などと批判するようになった。とは言いながら2002年の日韓W杯でも代表に選んでいるのだから、トルシエがいかに中田の力量を認めていたかがうかがえる。

05年のドイツW杯アジア最終予選では、イラン戦を控えた敵地で事件が起きた。実戦形式の守備練習において、中田が相手のボールを奪いにいった際、動かずにいた右ボランチの福西崇史に向かって「なんで、おまえ来ないんだ!」と怒号を飛ばしたのだ。福西もこれに対して「(ボールの奪いどころは)そこじゃない」と反論し、互いに一歩も引かずにピッチ上で激しく言い争う事態となった。

欧州リーグで実績を重ねてきた中田にしてみれば、日本代表のポジショニングの悪さやパススピードの遅さなどが我慢ならなかったのだ。中田は自身の掲げる高い理想にこだわり、日本代表にもそのレベルにまで上がってくることを要求した。それもこれも「W杯で勝つために必要なこと」との思いからであったが、他の選手たちとの軋轢は大きく、それが不協和音となってチームが崩壊する要因ともなった。

ドイツW杯グループリーグ最終戦で、日本はブラジルを相手に4失点を喫する惨敗。試合終了の笛が鳴らされると、中田はセンターサークルに歩み寄って仰向けに倒れ込んだ。所属するプレミアリーグ・ボルトンとの契約は残っていたが、当初からこのW杯で引退する心積もりであり、クラブには「もうお金はいらないから契約を切ってほしい」と伝えていた。

後年のインタビューで中田は、引退の理由について「サッカーを好きな部分が長きにわたって楽しめなくなったから」と話している。

《文・脇本深八》

中田英寿
PROFILE●1977年1月22日、山梨県出身。韮崎高卒業後、1995年にベルマーレ平塚に入団。97年の韓国戦でフル代表デビュー。98年にイタリア・セリエAのACペルージャに移籍。その後はASローマ、パルマなど欧州のトップチームで活躍した。

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