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中嶋常幸「スランプはすべて技術力でカバーできる」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第44回

Monton Tiemrak
(画像)Monton Tiemrak/Shutterstock

青木功、尾崎将司と日本ゴルフ界に「AON時代」を築き、国内ツアーのみならず世界の大舞台でも活躍した中嶋常幸。強靱な肉体から一定のリズムで繰り出されるスイングは、その美しさと正確さから「サイボーグ」と称された。

世界最古の歴史を誇るゴルフのメジャー大会、全英オープンが開催されるセント・アンドリューズ・オールドコース。その17番ホール(パー4)のグリーンは左右に長く、奥には舗装された道があるため手前から攻めたいのだが、その手前にも罠が潜む。

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1978年7月の全英オープン3日目、大会初参加の中嶋常幸は首位タイで回っていたが、17番ホールで3打目のバーディパットがカップをオーバー。グリーンからこぼれ落ちたボールは無情にもロードバンカーに入ってしまう。すると、バンカーからの脱出に4打を要し、結局、このホールで9打を叩いた中島は、優勝争いから一気に脱落してしまった。

以後、このバンカーは海外における中嶋の愛称「トミー」にちなんで、〝トミーズバンカー〟と呼ばれるようになった。不名誉な話には違いないが、中嶋の力量が海外でも認められたからこそ、名手の失態として〝ゴルフの聖地〟にその名前が残ったとも言える。

この3カ月前の4月にも中嶋は、やはり初参加となったマスターズの2日目、魔女が棲むといわれるオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブの〝アーメン・コーナー〟13番ホール(パー5)において、11オン2パットの大叩きをして予選落ちしている。

日本ツアー初の獲得賞金1億円

こうした20代半ば、まだ若手時代の失敗体験は、その後のゴルフ人生の糧となり、中嶋はトラブルに際しての心構えを以下のように語っている。

「バンカーで失敗したときにイギリスのことを思い出して(やっぱり俺はバンカーが苦手なんだ)って思うのか、(あそこで4回も打ったんだから怖いものはない!)って思うのか。失敗したことに対して自分の中でどう捉えるか、どう切り返すか。つまり、物事を悲観的なことにするのか発展的なことにするかは、その本人の気持ち次第」

また、この頃には〝打撃の神様〟川上哲治と出会って「スランプに陥ると周囲から気分転換したらいいとか言われるが、そんな甘いものではない。練習をやって、やって、やり抜いて、技術を高めていけ」とのアドバイスを得たという。

野球とゴルフで競技は違っても川上の言葉に感銘を受けた中嶋は、以後、ハードな練習を積み重ねることで順調に力をつけ、青木功、尾崎将司と並んで「AON時代」を築くことになる。後年、中嶋はテレビ番組で石川遼からスランプ克服法について問われたときにも、「スランプはすべて技術力でカバーできる」と答えている。

1984年、中嶋は一時的なスランプに陥り、このときにはゴルフ関係者やマスコミから「スイング改造に失敗した」と言われたほどだったが、結局、この壁も練習量によって乗り越えた。同年8月に日本プロゴルフ選手権で優勝を果たした中嶋は、「僕のゴルフ人生で最も価値ある1勝だった」と語っている。

1985年のシーズンは日米で42試合に参戦して年間6勝。日本オープン選手権で初優勝して日本タイトルの4冠目を獲得すると、日本ツアーで初となる年間獲得賞金1億円を突破した。

国内メジャーツアーからの“卒業”

青木や尾崎と比べると、どこか地味な印象のある中嶋だが、ゴルフへの情熱にかけては勝るとも劣らない。デビュー当初から眼鏡がトレードマークであったが、実際にはゴルフのために早い段階でレーシック手術を受けている。矯正後も「眼鏡のフレームのあるなしで視界が変わるから」との理由で、長らく眼鏡をかけて試合に臨んでいたのだ。

50代となってからもシニアツアーと並行しながらレギュラーツアーに参戦し、2006年には三井住友VISA太平洋マスターズにおいて、日本ゴルフツアーとしては4年ぶりの勝利を飾ってみせた。

しかし、さすがの中嶋も60歳を超えると体力的な衰えを痛感するようになる。2018年5月31日、日本ゴルフツアー選手権の森ビルカップ初日を5オーバーで終えた中嶋は、国内メジャーツアーからの〝卒業〟を宣言した。

「出るからには優勝を狙いたい。自分が望むプレーができないんじゃ仕方がない。卒業です」

中嶋は2日目もスコアをまとめることはできず、6オーバーの77。通算11オーバーの118位タイで予選落ちすると、「はぁ〜、卒業式くらいは60台で回りたかったよ。なんちゃって。まあ、一生懸命、頑張ったんだけどね、ダメでした」と悔しさをにじませた。

しかし、最後は「やり残したことはない。『悔いなし』という言葉だけ。ここからは、新しいスタートを切ろうという気持ち」と、笑顔で会場を後にした。

まだ練習場ならキャリーで250ヤード飛ばし、ツアー25勝以上の選手に与えられる永久シード権を持ちながらもきっぱりと引退を決断したのは、中嶋がそれだけ真摯にゴルフに取り組んできたことの証しだろう。

《文・脇本深八》

中嶋常幸
PROFILE●1954年10月20日、群馬県出身。73年に日本アマを最年少の18歳(当時)で制し、鳴り物入りでプロデビュー。76年に日本ツアー初優勝。国内で通算48勝を挙げ、80年代に四度の賞金王に輝く。2019年に日本プロゴルフ殿堂入り。

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