エンタメ

「脇役は長生き」田中角栄の事件史外伝『史上最強幹事長―知られざる腕力と苦悩』Part7~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

昭和44(1969)年12月、幹事長として総選挙に臨んだ田中角栄は、無所属当選者の追加公認を加えて自民党に300議席をもたらせ、いささか有頂天であった。

この総選挙での初当選者は「花の44年組」と言われ、その後、第一線で活躍した者が多かった。のちに首相の座に就いた羽田孜をはじめ、小沢一郎、梶山静六、渡部恒三(無所属当選後、自民党に追加公認)らがおり、その後、彼らが「田中首相」へ向けての有力な戦力となっていった。

また、こうした人物らを含めて、自民党公認の新人当選者は47人いたが、じつに〝田中系〟が3分の1近くを占めたことで、佐藤派内での田中系勢力がさらに増強、田中はやがての「天下取り」決戦の場へ向けて自信を深めたのだった。

なるほど、年が明けた昭和45年2月、ホテル・ニューオータニで行われた自民党と財界人との新春懇談会の席上、田中は壇上から神妙にこうあいさつして、頭を深々と下げてみせた。

「わが党が300議席を取れたのは、みなさんの物心両面からの援助のおかげであります。お礼の会をいくらやっても足りないくらいであります」

しかし、ご機嫌で会場を後にした田中は、記者団に取り囲まれるとヌケヌケとこう言ったのだった。

「俺だって、時には頭を下げるさ」

田中の自信のほどが、うかがえた言葉でもあったのである。

ところが、である。じつは、選挙後からここに至るまでに、人事をめぐって佐藤栄作首相と田中の間で水面下の神経戦、暗闘があったのだった。

田中角栄に“これ以上の勢い”をつけさせない

自民党の300議席が決まった直後から、佐藤は改造人事に着手する動きを見せた。最大の理由は、田中にこれ以上の勢いをつけさせないことにあった。さらには、自らが「沖縄施政権返還」をやり遂げて退陣したあと、後継者として推したい福田赳夫の存在があった。

佐藤は年が明けると、すぐ福田蔵相と保利茂官房長官を首相官邸に呼び、改造人事の断行を告げた。

次のような官邸記者の証言が残っている。

「佐藤は内閣以上に、党役員人事を重視していた。田中幹事長とともに、『反福田』として田中を支えている川島正次郎副総裁も動かしたかった。2人を動かすことで、自らが退陣後の自民党総裁選を〝福田有利〟に持っていきたかった。ところが、『人事の佐藤』に対して、策士として鳴る川島が立ちはだかった。川島の前では、さすがの佐藤もタジタジで、結局は鉾を収めるしかなかった。川島の手練手管により、田中の幹事長としてのクビがつながることになった」

「人事の佐藤」とは、佐藤の人事名人ぶりを指す。一般社会でも、トップが安泰の地位にいるための大きなポイントは、人事の巧拙によるところが大きい。優秀な部下ではあるが、自分の地位をおびやかす人物であるかどうかなど、部下を見定める目が必要ということである。

重心が低く、常に冷静、沈着で鳴る佐藤は、この目に優れ、人事の基本である「チェック・アンド・バランス」、すなわち有力部下たちを常に競争、けん制、均衡の中に置くという手法を用いていた。

“策士”川島正次郎の登場

当時、佐藤政権を支えた体制は「閥務に優れた政策通のリアリスト」田中角栄、「経済」に長けた福田赳夫、「寝業師で調整能力に秀でる」保利茂、「政策マンにして人望が厚い」愛知揆一、そして「忠臣」たる橋本登美三郎という〝5本柱〟であった。

佐藤は、なかでも田中、福田、保利の〝3本柱〟を重視しており、とりわけ、この3人を「チェック・アンド・バランス」の中に置いていた。3人の誰もの突出を許さず、田中が幹事長として力を付けて自分をおびやかしそうになると、党の都市政策調査会長という閑職に追いやり、それまで冷やメシを食わされていた福田を幹事長に就けるといった具合である。

また、田中、福田をともに引き上げて互いをけん制させ、力の削減を狙うかと思えば、両者をともに避けて保利を幹事長に持ってくるなど、まさに縦横の人事を駆使したのである。

これが奏功し、佐藤はその後の安倍晋三首相に抜かれるまで、戦後首相の最長在任期間である約7年8カ月、2798日の長期政権を維持したのであった。

しかし、そんな人事名人の前に立ちふさがったのが、〝策士〟をもって鳴る川島正次郎である。

「主役は息が短い。脇役は長生きである」

川島の通称は「川正」であったが、陰口は多々あり、いわく「ズル正」「トボケの正次郎」「ひまわり」「政界の裏面師百科事典」、なかでも極め付けは「道中師(スリ)」であった。これらは総じて、川島が〝ただ者〟でないことを表わしている。

川島はパリッとした背広の両内ポケットに常に100万円の札束を入れ、必要とあらば相手にさっと握らせるのを得意とした。こうして党内に独自の情報網をつくっていたことで、誰がどんなに情報をガードしても、やがて川島には知られてしまうのである。

また、こうした川島は政界遊泳術にも飛び切り優れ、要諦は決してトップの座を狙うことなく、〝あと一歩で頂上という地位での恍惚〟を知り抜いている男でもあった。「主役は息が短い。脇役は長生きである」が、口グセでもあったのである。

そんな川島を官邸に呼んだ佐藤は、副総裁交代を持ち出し、こう口を切ったのだった。

「どうだろう、君に衆院議長をお願いしたいが…」

すでに独自の情報網から、佐藤の思惑である衆院議長への〝棚上げ〟意向をつかんでいた川島は、表情を変えることなく「ほう…」と言った。

そのあと「トボケの正次郎」が、希代の策士ぶりを全開にするのである。

(本文中敬称略/Part8に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。