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邪馬台国は存在しなかった!? 最新調査で塗り替えられた“日本史の謎”が明らかに…

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(画像)scott mirror/Shutterstock

日本史の中でも縄文時代から大和朝廷が成立した飛鳥時代までは、とりわけ多くの謎が残されているが、連綿と続く科学的なアプローチによって、それらの一端は解明されつつある。常識を根底から覆す新説について検証してみた!

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学生時代、歴史の授業でエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明を「世界四大文明」と習った覚えのある人は多いだろう。

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だが、実はこれ、学説でもなんでもなく、四大文明などと言っているのは世界でも日本と中国ぐらいしかない。戦後に日本の教科書作成者が、世間的な知名度と語呂の良さからキャッチフレーズ的に名付けたにすぎず、古代文明とされるものは世界の10地域ほどで発見されている。

そうした中で近年、世界の考古学界で注目を集めているのが、日本の縄文時代だ。2017年に青森県の大平山元遺跡で発掘された石のやじりや土器などは、推定1万6000〜1万5500年前に作られた世界最古のものであることが判明した。

驚くべきことに遺跡から発掘されたクリをDNA鑑定したところ、その多くが一致していて、これが自然に採れたものではなく、栽培されていたことも分かっている(別々のところから採取されれば、それぞれのDNAは異なる)。

また、現在の新潟県糸魚川市付近で産出されたヒスイや長野県諏訪市付近から産出された黒曜石は、貴重品として日本中に広く流通していたとみられる。

調査の進んでいない“神代文字”

縄文土偶についても、2021年に新たな見解が示された。人類学者の竹倉史人氏が、発掘された土偶とその周辺の植物を比較したところ、多くの場合で造形に一致が見られたという。有名な遮光器土偶はサトイモ、ハート形土偶はオニグルミ、ほかにもハマグリやトチノミをかたどったと思しき土偶があり、縄文人は日頃から食していた植物に感謝を表し、豊作を願って擬人化したものが「土偶の正体」だというのだ。

正式な学説として認められたものではないが、写真で見比べた際の一致具合からすると、少なくともこれまでの定説である「妊婦をかたどった」という解釈よりも説得力が感じられる。

文明の定義を「都市国家の成立」とした場合に、日本の縄文時代の遺跡からは「統治」の痕跡が発見されていないため、「縄文文明」と称することに否定的な声はある。それでも土器の作成やヒスイの流通、クリの栽培、土偶による祭礼といった商工農業や宗教観において、世界最古のレベルの「文化」が存在していたことは確かなようだ。

「縄文時代には文字がなかったのだから、先進文化とは言えない」との主張もあるが、その一方で「日本にも古代文字はあった」とする説もある。現在も神社の石碑やお守りなどに使われている、ヘビがのたくったような、あるいは記号のような「神代文字」がそれだ。

神代文字については神道の流派によって創作されたとする説もあり、今のところ学術的には古代文字として認められていない。だが、古代人が岩石に刻んだ文字や文様(ペトログリフ)は、九州を中心として日本各地で確認されている。

これらについては江戸時代から、国学者たちが独自の研究を行っていたが、現代においての本格的な科学調査は進んでいない。そのため、今後の調査研究いかんでは、日本史どころか世界史をも一変させる新発見がなされる可能性もある。

古代史における空白の150年

中国の正史である『三国志』の「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国は、2〜3世紀に存在したという日本列島における国の一つだが、これがどの地域に存在したかについては、九州説、近畿説などさまざまな解釈があり、決定的な証拠は見つかっていない。

近年では「そもそも邪馬台国は存在しなかった」とする説もある。邪馬台国に関する記述は中国側の創作で、「もし邪馬台国が実在したのなら、日本のどこかにゆかりのある地名が残っていて、卑弥呼を祀った神社も存在するはず。『古事記』や『日本書紀』でも卑弥呼や邪馬台国について言及されていない」というのが、その理由だ。

「邪馬台国=大和国」とする説もある。中国において漢字は基本的に「1文字1音」とされていて、そうすると「邪馬台」の「台」を「たい」と読むのはおかしい。中国側が「やまと」の発音を聞いたとき、「と」を「台」と記したのではないかという仮説だ。つまり、これによると「邪馬台」の文字は「やまと」と読むのが正解だというわけだ。そうなると卑弥呼についても、「日巫女」または「姫子」を中国側が当て字にしたものと考えられる。

邪馬台国が滅亡したと推定される4世紀から飛鳥時代までの間は、古代史における「空白の150年」と呼ばれている。この時期の中国の文献には日本に関する記録がなく、国内の様子を示す史料が存在しないのだ。

当時、在位したとされる仁徳天皇については、およそ300年後に編纂された『古事記』や『日本書紀』に記述があるものの、これが正しく史実を記述しているのか、それとも神話的な伝承なのかは研究者の間でも意見が分かれている。

かつて「仁徳天皇陵」とされていた遺跡も、本当に仁徳天皇の墓なのかは学説として定まっていない。そのため、現在の教科書では「仁徳天皇陵」ではなく、所在地に由来する「大仙陵古墳(または大山古墳)」と記述されている。

ただし、宮内庁は今でも「仁徳天皇陵」として管理していて、皇室の財産であることを理由に本格的な発掘調査を認めていない。これについても「調査を拒むのは天皇家の正統性に関わる秘密が隠されているためではないか?」との陰謀論めいた声もある。

そういった話の中では、日本人の祖先をユダヤ人とする「日ユ同祖論」が戦前から根強く、「多くのユダヤ人が渡来したとされる4世紀に造られた仁徳天皇陵には、天皇家とユダヤのつながりを示す証拠が眠っている」という主張も多く見受けられる。

戦後にはGHQ(連合国軍総司令部)のダグラス・マッカーサーの指示により、仁徳天皇陵の大規模調査が行われているが、これについても日ユ同祖論者は、「天皇家とユダヤの関わりを調べるためのもの」としている。

マッカーサーによる調査の結果は公表されておらず、これが「何ら目ぼしい発見がなかったため」なのか、それとも「発表できないような重要な秘密があったため」なのか、現時点では分かっていない。

創作された「聖徳太子」伝説

かつては1万円札に肖像が描かれ、日本史上最高峰の偉人の一人とされてきた聖徳太子だが、現在の多くの歴史教科書では、聖徳太子ではなく「厩戸王(聖徳太子)」と記されている。聖徳太子は後世の尊称ないし諡号で、古代の文献には見られないからだ。

『古事記』や『日本書紀』によると、厩戸王は6〜7世紀、飛鳥時代の皇族、政治家で用明天皇の第2皇子。幼少時から聡明で、女帝として知られる推古天皇の摂政を19歳で務め、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図ったという。

この頃に「憲法十七条」や「冠位十二階」が制定され、また、遣隋使の派遣は中国の正史『隋書』にも記されている歴史的事実であり、これらすべてを「厩戸王=聖徳太子」が1人で実現したものとしている。

「一度に10人が発した言葉を聞いて理解した」「隋の皇帝に対して、日本の天皇(日出処の天子)であることを表明した」などのエピソードも伝えられる。

ところが近年の研究では「必ずしもそれらは、決して厩戸王が1人で実現したわけではない」との考えが主流となっている。

その根拠は『隋書』に厩戸王の名が見られないことで、また、膨大な仕事量を1人でこなすには無理があるとの見方も、至極当然だ。

そのため、現在は「壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇が、自身の権威付けのために『古事記』や『日本書紀』の中で、血縁者である厩戸王を偉人に祭り上げた」という説も有力視されている。

今後もさまざまな調査研究が進められることによって、新しい歴史の真実が判明するだろう。

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