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瀬古利彦「負けて泣くのは嫌いだから、勝って泣きたいじゃん」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第26回

Pavel1964
(画像)Pavel1964/Shutterstock

トップの走者にぴったりつけて、鋭いラストスパートで抜き去る。名実ともに日本マラソン界のエースとして活躍した瀬古利彦は、その卓越した勝負根性で国内外の強豪たちを破ってきたが、五輪のメダルだけは最後まで縁がなかった。

現役時代はストイックな風貌から〝走る修行僧〟と呼ばれた瀬古利彦。だが、本来の性格は明るく冗談が好きなタイプで、引退後には酒の席での「セクハラ騒動」で物議を醸したこともある(ハーフで茶髪の女性アナに〝下の毛〟の色を尋ねたとされる)。

2007年12月、東京都の教育委員に任命された際には、教育長に「キャバクラに行っちゃダメなんですか?」と質問したこともあった。よく言えばぶっちゃけキャラであり、日本陸上競技連盟の幹部としては、現在の日本マラソン界に苦言を呈することもある。

「(現在のレベルは)かなり危機的な状況になっている。その大きな原因は、マラソンを本気でやろうとする選手が少なくなってきていること。われわれのときはマラソンが本業、駅伝が副業というのが普通だったが、今は逆になっている」

国際レースを含め15戦10勝という成績を挙げたマラソン界のレジェンドの目には、国内の駅伝ばかりを重視する昨今の選手たちが物足りなく映るのだろう。

瀬古は一浪して早稲田大学に入学する直前、競走部の合宿に参加したときに中村清監督に勧められ、中距離からマラソンに転向した。

走り込んで月に1300キロ!?

とはいえ、日本陸連が高校生以下のマラソン参加を推奨していないので、それは当然なのだが、瀬古は浪人時代に不摂生で体重を8キロ増やしてしまうなど、こらえ性がないことを自覚していた。

中村監督にしても「日本人がランニングで世界に勝てるのはマラソンだけ」との信念は持っていたが、本格的にマラソン選手の育成をした経験はなかった。

練習はとにかく走り込むことが第一で、その距離は月間1300キロにも及んだという。平均すると毎日フルマラソンと同じだけの距離を走っている計算で、ひたすら走りまくることで実力をつけていった。

現在、2時間1分09秒の世界最高記録を持つエリウド・キプチョゲ(ケニア)は、通常時の練習メニューを公開しているが、月間の走行距離は800キロ程度。これと比べたときに、瀬古がどれほどすさまじい特訓をしていたかが分かるだろう。

引退後に「走るのが好きだったのか?」と問われた際、瀬古は「走るのが好きな人はいないよね。苦しいもん」と言いつつも、「負けて泣くのは嫌いだから、勝って泣きたいじゃん。そう思うと苦しいことを耐えられる」と語っている。そんな負けず嫌いの性格が、レースでの勝負強さにつながったに違いない。

1979年12月に開催された福岡国際マラソンは、翌80年のモスクワ五輪の代表選考会も兼ねていた。このレースで瀬古は宗茂、宗猛の兄弟と、日本マラソン史上に残る三つどもえのデッドヒートを繰り広げる。

無念のモスクワ五輪ボイコット

40キロ地点で猛がスパートすると、すぐさま茂が続く。一気に30メートルほど離されてしまった瀬古は、その瞬間に「やられた」と思ったという。だが、宗兄弟が振り返ったことで、瀬古は「2人も疲れているんだ」と察知。息を吹き返して平和台陸上競技場まで食らい付き、最後のトラックで追い抜いて勝利した。

先頭集団の中でペースを守り、終盤の爆発的なスパートによって最後にかわすという〝必勝パターン〟は、このときに生まれたもので、瀬古は「福岡国際でマラソン選手としてのすべてを学んだ」とも話している。

瀬古と宗兄弟は、このレースでモスクワ五輪の代表権を得たものの、結局は日本のボイコットという憂き目に遭う。もし出場していれば、3人のうちの誰かが日本に初のマラソン金メダルをもたらした可能性は十分にあっただろう。

「金メダルのチャンスを逃した」との思いが逆にプレッシャーとなったのか、瀬古は1984年のロサンゼルス五輪、88年のソウル五輪でも代表に選ばれながら、結果はそれぞれ14位、9位に終わる。その間に出場した国際大会では、すべて優勝を果たしていたにもかかわらず、五輪だけは結果を得ることができなかった。

ロサンゼルス五輪では練習中から倦怠感に悩まされ、本番の2週間前には大量の血尿が出てしまう。しかも飲んだ漢方薬の副作用で、下痢による脱水症状まで起こしてしまった。

大会後に「惨敗したけれども、これまで積み上げてきた練習は裏切らない。その積み上げてきたものは逆境に活きる」と語った瀬古だが、五輪における不運は重なる。

ソウル五輪の前年には調整のため出場した駅伝で、左脚の腓骨を剥離骨折。その後、びわ湖毎日マラソンに優勝して代表には選ばれたが、タイムが平凡だったことで世間からバッシングを受け、うつ状態になってしまったという。

気持ちは大事だが、気持ちだけでも勝てない。これがスポーツの奥深くも恐ろしいところであろう。

《文・脇本深八》

瀬古利彦
PROFILE●1956年7月15日生まれ。三重県出身。早稲田大学在学中は箱根駅伝で活躍。トラック競技、マラソンでも圧倒的な強さを誇り、70年代後半から80年代にかけて日本の長距離界をリードした。

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