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ラモス瑠偉「まだ何も終わってない。なんで泣くの!」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第25回

Pasko Maksim
(画像)Pasko Maksim/Shutterstock

「Jリーグカレー」や「お茶づけ海苔」のCMなど、Jリーグ発足当初からサッカー界の顔として活躍したラモス瑠偉。愛称の「カリオカ」は出身国ブラジルに由来する〝リオっ子(リオデジャネイロ市の住人)〟の意味である。

1989年11月に日本への帰化を果たしたラモス瑠偉。当時の読売クラブは外国人出場枠3人に対し、4人の外国人選手を抱えていた。そのため、クラブ側が国籍の取得条件(滞在年数、日本人の配偶者)を満たしていたラモスに、日本への帰化を求めたのだ。ラモスは当初、クラブの都合で自分の人生を決められることに不快感を示していたが、結局は帰化を決める。

「妻の両親は一人娘をガイジンの俺にくれた。それをブラジルに連れて行っては申し訳が立たない」

「乱闘騒ぎを起こして1年間の出場停止となったときも、バイク事故で左脚のすねを複雑骨折したときも、見捨てずに守ってくれたクラブへの恩返し」

そんな思いから帰化を決断したという。本名の「RUY」を妻の提案で、当て字の「瑠偉」としたのも、このときである。

ちなみに、出場停止の原因になった乱闘とは1978年1月の日産戦、ラモスがひじ打ちの反則を取られた際に、相手選手が笑っているのを見て激高し、グラウンド中を追いかけ回したもの。バイク事故は81年8月のことで、事故直後には医者から「二度とサッカーはできない」と宣告されたほどの重傷だった。

日本サッカーを強くしたのはオフト

それでもラモスが解雇されなかったのは、読売クラブがその才能を高く買っていたからで、ラモスもまた「読売は俺のサッカー人生そのもの」と話している。

帰化した当時、ラモスは日本代表入りなどまったく考えていなかったそうで、90年に中国の北京で開催されたアジア競技大会で日本代表に初招集されたときは、「夢のようでうれしくて涙がこぼれた」「もうブラジル人ではなく日本人になったのだと実感した」と感激をあらわにしている。

代表チームではハンス・オフト監督の徹底した管理主義に、「俺にはオフトのやり方は合わない。もっと自由にやりたい」と反発したこともあった。しかし、そんな自分の気持ちを抑え、チームの司令塔として1994年のアメリカ・ワールドカップ本大会出場を目指すことになる。

「オフトは野良犬みたいな俺まで抱え込んでくれて見捨てなかった。日本サッカーを強くしたのは間違いなくオフト。だから男にしたかった」

しかし、カタールのドーハで開催された6チーム総当たりのアジア最終予選は、2戦目までに1敗1分けでいきなり最下位となってしまう。それでも日本代表は北朝鮮と韓国に連勝し、ようやく息を吹き返した。

このときまで日本代表はW杯予選で韓国に勝利したことがなく、負ければ予選敗退、勝てばW杯出場に王手がかかる状況での歴史的な勝利に、試合で唯一の得点を決めたカズこと三浦知良は、感極まって大粒の涙をこぼした。

だが、勝利に沸き立つチームの中でラモスはただ一人、「まだ何も終わってない。なんで泣くの!」と檄を飛ばした。当時の気持ちをラモスは自著などで次のように語っている。

「韓国に勝ったからといってアメリカに行けるわけじゃない。最後にまだイラク戦が残っていたし、それに勝たないと何の意味もないからね。そういうところで流す涙はちょっと嫌だった。みんな、もっと強くなれよって思ったね」

引退試合は豪華“読売オールスター”

イラクとの最終戦、国歌斉唱の後でユニホームの袖を引き寄せ、日の丸に口づけするラモスの姿があった。

ところが、結果は土壇場で追いつかれての引き分け――いわゆる「ドーハの悲劇」によって、日本代表は初のW杯本戦出場を逃す。だが、それまで夢のまた夢だったW杯を「あと一歩」のところまで引き寄せたのは、90年にブラジルから帰国したカズであり、その前年に帰化したラモスのプロ魂であった。

これが最後のW杯挑戦となったラモスは、98年11月に現役引退。翌年8月には国立競技場で、カズや武田修宏、北澤豪などをそろえた「読売ラモスオールスターズ」と「Jリーグ選抜」による引退試合が行われた。

現役時代にこだわり続けた背番号10のユニホームをまとったラモスは、得点を決める場面こそなかったものの、華麗なループパスや得意のラボーナ(軸足の後ろを回して、蹴り足を交差させボールを蹴る)など、持てる技術を余すことなく披露してみせた。

この日のために集まった4万8000人のファンから大きな歓声が送られる中、試合終盤には背番号0のユニホームを着た当時13歳の長男ラモス・ファビアノもフィールドに登場し、親子共演も実現している。

ラモスは最後のあいさつで、「今まで日本でやってきた22年間は、あっという間でした。生まれ変わっても日本に来て、早く帰化して、もう一度W杯を目指したい」と、涙ながらに語ったのだった。

《文・脇本深八》

ラモス瑠偉
PROFILE●1957年2月9日生まれ。ブラジル出身。1977年に来日して読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ1969)でプレー。不遇の日本サッカーリーグを支え、Jリーグ発足に貢献した。

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