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アントニオ猪木「語録」伝説の名言&ズッコケ迷言を振り返る

アントニオ猪木
アントニオ猪木 (C)週刊実話Web

10月1日にこの世を去った〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さんを偲び、過去の『週刊実話ザ・タブー』に掲載した関連記事をプレイバックする。

【年齢・肩書等は掲載当時のまま】

猪木のモノマネというと、ひと昔前にはアゴを突き出してファイティングポーズをとり、「なんだ、このヤロー」というのが定番だったが、芸人の春一番がリアル猪木のモノマネをやり始めてからは、そのさまざまな名言や迷言が世に知られるようになった。

そうした言葉の由来を探ってみると、猪木の意外な素顔が見えてくる。

「いつ何時、誰の挑戦も受ける」

1972年の新日本プロレス旗揚げ以降、「プロレスこそ最強の格闘技」との言葉とともに使われてきたセリフで、 76年に〝柔道王〟ウイリエム・ルスカから対戦要求があったときにも、「プロレスが格闘競技の王者であることを見せるために挑戦を受けました」と答えている。自らの挑戦を一向に受けようとしないジャイアント馬場へのアンチテーゼの意味もあっただろう。

その原点は66年の東京プロレス旗揚げ戦。試合後に「誰の挑戦でも受けます。一般の人でも構わない。こっちはプロなんですから」と言ったことに始まる。

しかし、後年には猪木自身が前田日明の挑戦を受けようとしなかったことで、逆にファンからの批判の的にもなってしまった。

「こんなプロレスを続けていたら10年持つ選手生命が1年で終わってしまうかもしれない」

74年3月19日、蔵前国技館。国際プロレスを退団したストロング小林とのエース対決を制すると、その勝利者インタビューで語ったのがこの言葉である。

当時、日本人大物同士の対戦は異例のことで、この一戦への注目度は高く、また国プロと小林の契約問題から実現までには幾多の壁があり、そうしたことから精神面でも相当シビアな試合であった。

フィニッシュのジャーマン・スープレックス・ホールドは猪木自身も頭をマットに打ち付け、その際に両脚のつま先が浮き上がったほどの激しいものとなり、「猪木史上最高のジャーマン」と言われている。

その一方、このときの衝撃で首を負傷して以後、ジャーマンを放てなくなったともいうから、掲出の言葉は決して大げさなものではなかったようだ。

「私のアゴは鉄のように鍛え上げられている」

76年、モハメド・アリ戦に向けた調印式で、アリが猪木のアゴを指して「まるでペリカンのくちばしだ。お前のそのくちばしを粉々に砕いてやる」と挑発すると、猪木は動じることなく「私のアゴは確かにペリカンのように長いが、鉄のように鍛え上げられている」と応じ、さらに「日本語を一つ教えてあげよう。アリとは日本で虫けらを指す言葉だ」と言い返した。

文字面だけを見るとユーモラスなやり取りのようだが、その実、世界的英雄を相手に一歩も引かない気概を見せた猪木屈指の名言であった。

「ど~ですかお客さん」

87年暮れの蔵前国技館。ビートたけし率いる「たけしプロレス軍団」が新日マットへの参戦を表明。参謀役のマサ斎藤は自らスカウトしてきた謎のマスクマン、ビッグバン・ベイダーと猪木の直接対決を迫った。

同大会で当初メインイベントとされていたのは猪木vs長州力のシングル戦。観客の大半もこれを楽しみにしてきたのだから、カード変更は到底受け入れられるはずもない。ところがリングに登場した猪木が「よし、受けてやる! ど~ですかお客さん!」とやったことで、館内は大ブーイングに包まれることとなった。

結局、猪木は長州戦とベイダー戦を立て続けにこなすことになるのだが、長州戦はセコンドの馳浩が乱入して猪木の反則勝ち。ベイダー戦は一方的に猪木がやられて、なんと2分台での短時間敗戦に終わった。

消化不良の試合結果に客席からは怒号が飛び交い、さらにはいったん控室に下がった猪木が再度リングに現れ、「みなさん、ありがとう」と、まったく空気を読まない発言をしたことで、ついには暴動騒ぎに発展してしまった。

「やれんのか! おい!」

大みそか格闘技興行のタイトルにもなった「やれんのか!」だが、これは88年4月、沖縄でのいわゆる飛龍革命の際に発言したもの。

ベイダーとのシングル戦を「自分にやらせてくれ」と迫る藤波辰爾に対して、最初はその滑舌の悪さから何を言っているのか聞き取れずポカンとした表情の猪木だったが、ようやくその主張を理解すると「やれるのか、本当にお前」とビンタを食らわせた。

これに藤波もビンタで応酬すると、何を思ってかハサミを手にして自らの前髪を切り始める。それを見た猪木は「待て待て」と慌てて止めに入り、藤波が控室を出た後には切られた髪の毛が肩にかかっているのを手で払ったりしており、実はこのとき意外と冷静であったことがうかがえる。

この一連の師弟問答は、訳の分からなさからファンの間で語り草となった。

「それは俺の靴だ」

故障欠場中だった猪木のもとに現れた長州は、その眼前に猪木のリングシューズを置いた。「一刻も早くリングへ復帰して俺と戦ってくれ」という無言のメッセージである。

それを見た猪木は「おい長州」と声を掛けると、一瞬だけ間を置いてから「それは俺の靴だ」と続けたのだった。

長州の意図を猪木はまったく理解していなかったというわけで、それはつまり、この頃の新日が台本ありきでなかったことの証拠とも言えるだろう。

「誰でもいい、俺の首をかき斬ってみろ」

83年8月、田園コロシアム。第1回IWGP決勝でハルク・ホーガンに失神KO負けを喫し、約3カ月の休場を経ての復帰戦。因縁浅からぬラッシャー木村とのシングル戦を卍固めで完全勝利すると、猪木は高らかにこう叫んだ。

実況の古舘伊知郎はこれを「逆・下克上宣言」と称したが、この時の猪木はアントンハイセル事業の失敗から社長の座を追われ、さらにはドル箱だったタイガー・マスクの造反退団という問題も抱えていた。

掲出の言葉の前に、「お前たち、姑息なことはするな!」と言っていたところをみると、実際には猪木社長解任のクーデターを主導した山本小鉄やタイガーを非難する気持ちが込められた、逆ギレのセリフであったのかもしれない。

「元気ですか!」

初めて猪木がこれを言ったのはいつなのか、諸説ある中でも有力なのが「89年、スポーツ平和党で参院選出馬した際の選挙演説の第一声」というもの。猪木の代名詞ともなった言葉の初出がリング上でなかったというのは、プロレスファンからするとやや寂しいかもしれない。

これに続く「元気があればなんでもできる~」のくだりは、その時々のアドリブで付け加えられるため、いつから始めたのか明らかではない。

猪木のモノマネで知られた芸人の春一番が重篤な腎不全で入院していた際、これを見舞った猪木が、ベット上でほぼ意識のない状態の春に向かって「元気ですか!」と声を掛けたところ、春の病状が一時的とはいえ回復したという真偽不明の逸話もある。

「1、2、3、ダ~!」

猪木の定番フレーズとして今も頻繁に使われる「1、2、3、ダ~!」だが、この初出は90年2月10日、猪木&坂口征二の黄金コンビと橋本真也&蝶野正洋の新世代コンビの対戦後のこと。

その前年に参議院議員となった猪木は、久々の試合だったこともあり動きはイマイチ。最後は蝶野に延髄斬りを決めてフォール勝ちを収めたものの、全体的には盛り上がりを欠くものになった。

どうにも締まりの悪い結末に、リングアナが「せっかくの東京ドーム大会ですから6万人のお客さんと全員で『ダー』をやりましょう」と助け船を出すと、それに猪木が応えて「では、1、2の3でダーとやりましょう」と観衆へ説明し、観客たちも「しょーがねえなあ」と苦笑いを浮かべながら「ダー」と叫んだのであった。

これこそが「1、2、3、ダ~!」の始まりで、のちにはカウントを始める前に「行くぞ~!」の掛け声が加わって、現在のかたちへと変化していった。

余談だが、この試合前の控え室で、敗戦時の進退をテレビ朝日の佐々木正洋アナウンサー(当時)に問われた猪木が、「出る前に負けることを考える馬鹿がいるかよ!」と強烈なビンタを食らわし、橋本が「時は来た! それだけだ!」の名セリフを発したのもこの試合の前であった。

猪木の勝ち名乗りである「ダー」については、いつから始めたのか不明だが、その最初は「ヤッター」だったものが、いつしか縮まって「ダー」になったとも言われる。

また、もともとは両手を上げて「ダー」とやっていたが、いつからか片手で行うようになっていて、これは故障もしくは四十肩のせいで片方の腕が上がらなくなったためという。

76年、パキスタンで行われたアクラム・ペールワンとの異種格闘技戦では、猪木が両手を上げて「ダー」と勝ちどきを上げた姿が、アラブの神へ祈りを捧げるのと似た格好であったために、地元の英雄の惨敗に暴動寸前だった観衆たちがおとなしくなったとの逸話もある。

もし、この時に猪木が片手で「ダー」とやっていたならば、いったいどうなっていただろうか。

「どうってことねーよ」

昔から言ってそうな言葉だが、意外にもその歴史は浅い。

参議院議員を務めていた94年、猪木は長年の右腕であった新間寿氏や公設第一秘書の佐藤久美子氏らによって、税金未納や収賄、女性問題などを次々と暴露された。

これを週刊現代にスクープ掲載されたときに発したのが、この「どうってことねーよ」であった。

単なる強がりだったのか、本当に何とも思っていなかったのかは、当人のみぞ知るところだが、結果としてこれらスキャンダルのダメージは深く、次の参院選では落選の憂き目にあうこととなる。

「この道を行けばどうなるものか~」

98年4月4日、引退試合後のスピーチで披露した詩。全文は「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばそのひと足が道となり そのひと足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」というものだった。

これほど猪木のレスラー人生を端的に表したものはないという屈指の名言だが、実はこれには大きな誤りがあった。

猪木は自伝においてこの詩を「一休宗純の言葉」と紹介しており、実際にインターネットサイトなどでは「一休の詩」とする記述も多く見られるのだが、本当は昭和初期の哲学者・清沢哲夫によるもの。その著書にもまさしく『道』のタイトルで、この詩が収められている。

だからといって言葉の価値が下がるわけではないが、作者を間違ったという点においては迷言とも言えよう。

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