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アントニオ猪木さん死去で振り返る猪木イズムと“燃え尽きた闘魂”秘話

アントニオ猪木
アントニオ猪木 (C)週刊実話Web

まさに生き様こそが〝異種格闘技戦〟だった。元プロレスラーで国会議員としても活動した〝燃える闘魂〟アントニオ猪木氏が10月1日朝、心不全で亡くなった。79歳。

『1、2、3、ダー!』、『元気ですかー!』、『元気があれば、なんでもできる』のフレーズは、猪木イズムの真骨頂だった。

猪木死去で早速、特番を編成したのがテレビ朝日。『サタデーステーション2時間SP』内で予定していた番組内容を急きょ、変更。『アントニオ猪木さん死去「燃える闘魂」を緊急追悼』と題して約1時間50分にわたって放送したのだ。

「そもそも、テレビ局の中で猪木と一番パイプがあり、プロレス映像を持っているのがテレ朝なんです。かつてテレ朝は新日本プロレス時代の試合をゴールデン帯で放送していた。同じ時代を生きた中高年は、目を潤ませながら猪木と共に最後の『ダー』の掛け声を上げたはず」(テレ朝関係者)

猪木がプロレスラーとしてデビューしたのは1960年9月。家族で移住したブラジルで、現地を訪れていた力道山に才能を見出された。

「力道山の門下生としてプロ野球から転向してきたエリートのジャイアント馬場と共に看板選手として活躍します。猪木にとってコンプレックスが馬場。人気では絶対に勝てなかった。そんな事情もあってか、1972年に新日本プロレスを旗揚げするんです」(プロレス番組ディレクター)

同年、馬場も全日本プロレスを設立。日本に一大プロレスブームが到来した。

「プロレスラーとしての猪木は真剣勝負を標榜し、『卍固め』や『コブラツイスト』、『延髄斬り』などの必殺技を繰り出し多くのタイトルを手にします。また、藤波辰爾、長州力、初代タイガーマスクの佐山聡などスター選手育成にも力を入れた。常にプロレス界の未来を見据えていた」(元東京スポーツ記者)

寝転がったまま続けた試合

真剣勝負の異種格闘技にも率先して取り組んでいた猪木にビッグチャンスがやってくる。1976年6月26日、当時プロボクシングの世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとの一戦が実現したのだ。

「日本を代表するプロレスラーと現役の世界ボクシングチャンピオンの対戦は、世界中から注目を集めた。試合は1ラウンド3分の15ラウンド制。〝蝶のように舞い、蜂のように刺す〟アリに対し、猪木は最初からリングに寝転がって仰向け状態のままアリの太ももや脛への蹴りを狙っていった。当時、立ったままパンチを狙うアリ、寝転がったままの猪木のファイティングポーズは史上最悪の凡戦と称された。しかし、最近になってこの試合は凡戦どころか非常に考え抜かれた『ボクシングとプロレスの長所を最大限生かした格闘技史に残る世紀の一戦』と評価を変えています」(同)

後になって判明したことだが、当時、アリサイドはこの一戦をエキシビションマッチと捉え、明確なルールを定めず契約に調印していたという。

「ガチンコ試合を希望する猪木に対し、アリ側は多くのプロレス技を使用しないよう要求したんです。猪木が寝転んで試合したのは条件をのんだから。実は、猪木は遺書を書いて試合に臨んでいた」(元猪木側近)

猪木は政治家としても活動するなど、プロレスの枠を超えた功績を残している。1989年にスポーツ平和党結成。同年の参議院選挙で初当選。95年の参院選で落選したが、13年の参院選で日本維新の会から出馬し当選、国政復帰した。

「初当選翌年の90年には、湾岸戦争でイラクの人質解放に尽力します。人質を解放したときは世界中を驚かせた。また、北朝鮮にも独自ルートを持ち接触を続けた。今回、猪木氏の訃報に触れ北朝鮮の外交官で執行部のメンバーだった金永日元朝鮮労働党国際部長らが中心となって、猪木氏を顕彰する動きがあるそうです。今は亡き安倍元首相も猪木人脈には密かに期待していました」(永田町事情通)

四度の結婚と三度の離婚…数々の不倫も

半面、猪木は私生活でも話題を振りまいた。参議院議員1期目、秘書などの告発による金銭トラブルや、女性スキャンダルが世間をにぎわせた。中でも、女性に関しては数々の浮名を残している。

「猪木は生涯で四度の結婚と三度の離婚をしている。他にも、数々の女性たちとの不倫が報じられた」(スポーツ紙記者)

女性関係も派手だった猪木にとって、何よりの自慢が女優・倍賞美津子との結婚だったという。

「美津子さんは2番目の妻です。彼女の一目惚れだったそうです。1971年、東京・京王プラザホテルで行われた結婚披露宴は1億円、招待客は1000人超え。婚約指輪は2000万円もしたそうです。しかも、当時の猪木は日本プロレスを辞め、それこそ無一文で新日本プロレスを立ち上げる直前。その後、美津子さんとは猪木の不倫が原因で離婚するが、昨年も猪木を見舞いに訪ねています。2人にしか分からない絆があったんでしょうね」(同)

死の間際にあっても猪木の挑戦は続く。YouTubeチャンネル『闘魂チャンネル』を開設したり、マネジメント会社『猪木元気工場』を設立し顧問に就任。さらには、フィリピンの環境問題に取り組むなど最後まで前向きに生きていた。

「今年8月、日本テレビの『24時間テレビ』に出演したのも、病気に苦しんでいる人に元気を与えたいという思いからだった。一時期、猪木の出演料は一律100万円が相場だったが、『24時間テレビ』に関してはギャラを辞退したといいます」(同)

〝燃える闘魂〟アントニオ猪木の人生は、最後まで波瀾万丈だった。次はあの世から『元気ですかー! 元気があれば、なんでもできる』と、我々にエールを送ってくれているはずだ。

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