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テレビや新聞では報じない!重大事件の殺人犯・その後追跡リポート③〜警視庁長官狙撃事件など・中村泰

(画像)Krakenimages.com / shutterstock

社会を震撼させた重大事件であっても、ひとしきり報道が過熱し、犯人の裁判が一区切りつくと、われわれが知り得る情報は少なくなりがちだ。面会と文通をはじめとする独自の取材データに基づき、テレビ、新聞が報じない著名な殺人犯の近況を報告する!

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「警察庁長官を撃った男」。最近まで岐阜刑務所には、そんな異名を持つ無期懲役囚の男が服役していた。

ところが、昨年8月以降、男に手紙を出しても、〈あて所に尋ねあたりません〉とスタンプが押され返送されるようになった。それは、男の生命が危うい状態にあることを示していた。

男の名は、中村泰。生きていれば、現在92歳になる老受刑者だ。

1995年3月、警察庁の国松孝次長官が何者かに狙撃され、重傷を負った事件は2010年に未解決のまま、公訴時効が成立した。捜査を主導した警視庁公安部がオウム真理教犯行説に固執したせいだとされる。

一方、水面下で警視庁刑事部が真犯人だと断定していたとされるのが中村だ。

中村は72歳だった2002年、名古屋で現金輸送車を銃撃して逮捕され、長官狙撃事件の捜査線上に浮上した。もともとは終戦直後に入学した東大で武力革命を志し、テロ活動をしていた男で、1956年に警官を射殺し、20年も服役。長官狙撃事件当時は新宿の貸金庫に拳銃10丁と銃弾1000発を隠し持ち、事件の直前直後に金庫を開閉した記録もあり、状況証拠は真っ黒だった。

さらに中村本人も積極的にメディアの取材を受け、「国松長官を撃ったのは自分だ」とアピールしたため、中村犯人説が広まったのだ。

かくいう私も中村をクロだと思う1人だ。2013年に文通を始めた当初、犯行動機を尋ねると、中村は手紙にこう書いてきた。

〈私は微力な個人の力で歴史を変えるような軌跡を残したいという願望あるいは野心を抱いていました〉

歴史を変えたかった男の終活

なぜ、国松長官を撃てば歴史を変える軌跡になるのか。中村の説明はこうだ。

〈警察は当時、その少し前に起きた地下鉄サリン事件の容疑でオウムの教団施設を家宅捜索しながら、誰も逮捕できないでいました。私はオウム信者の犯行を装って国松長官を殺害し、警察が本気でオウム制圧に動くように追い込んだのです〉(複数の手紙の要旨)

国松長官狙撃事件の発生後、警察はオウムへの追及を加速させ、教祖の麻原彰晃の検挙にこぎつけた。中村はそれを自分の〝功績〟と思っており、世に知らしめようとしていたのだ。

実際、中村はテレビの特番で「長官狙撃事件の犯人」として取り上げられるたび、嬉しそうに放送日時を手紙で知らせてきたものだ。

だが、2015年に直腸がんが発覚し、17年にパーキンソン病も発症。19年以降は手紙を出しても返信はなく、一方で獄中で読んだ本を大量に送り届けてくるなど、「終活」らしきことをするようになった。そんな中、手紙が返送されてくるようになり、私は「死んだのか…」と思ったというのが正直なところだ。

だが、調べたところ、中村は東京都昭島市の「東日本成人矯正医療センター」という医療刑務所に移されたことが分かった。9月初め、面会に訪ねたのだが…。

「親族以外、原則として面会はできません」

大柄な職員2人に頑なに拒否され、結局、中村の安否は確認できなかった。

同センターにも何度か手紙を出したが、返信はなく、中村はおそらく手紙も書けない状態なのだろう。

もう長くはなさそうだが、本人としては満足のいく人生だったのだろうと思う。

(取材・文/片岡健)

重大事件の殺人犯・その後追跡リポート①を読む

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