現在は多くのものまね芸人がしのぎを削っているが、このムーブメントを草創期から支えてきたのが松村邦洋さんだ。そのレパートリーは、芸人から俳優、プロ野球選手、政治家にまで及び、「実は天才」ともいわれる人気芸人の素顔に迫った。
松村邦洋(以下、松村)「僕、週刊実話さんに出たことがあるんです」
――あ、そうでしたか。
松村「ソープランドに行った記事なんですけど、蛭子(能収)さんから『松村さんのイラスト描いたよ〜、なんかお店行った話』って連絡があって、そんな取材したかな…なんて思ったら、僕が取材したんじゃなくて、ライターの方が僕を接客したお姉さんの話を聞いて記事にしてたんです」
――なるほど(笑)。
松村「たぶん『最近タレントで誰か来てない?』『松村が来たわよ』っていう話を取材されたんでしょうね、会話が一字一句、合ってました。1つだけ間違ってたのは『アポなしでやって来た』ってこと。ちゃんと電話で予約取って行きましたから」
――そこですか(笑)。
松村「あの頃はそういった記事になるのも良しと思ってたけど、今はちょっと恥ずかしいですね」
片岡鶴太郎との出会いを機に
――このまま風俗話を聞きたいところですが(笑)、気を取り直して、松村さんの芸能界デビューのきっかけから伺えますか?
松村「片岡鶴太郎さんにきっかけをいただいたんです。僕のものまねを番組で見て、声をかけてくださって」
――それで、鶴太郎さんと同じ太田プロに入られたと。
松村「そうです。当時、僕が21歳で鶴太郎さんは33歳。なのに、すごい大師匠の風格なんですよ。本当に『ちむどんどん』(NHK)の平良三郎さんのような方でしたね」
――松村さんは素人時代からものまねでテレビ出演されていましたが、ものまねをするきっかけは?
松村「『オレたちひょうきん族』や『ものまね王座決定戦』(ともにフジテレビ系)なんかを見てましたね。声が似てるかなと思っていた(『3年B組金八先生』の)加藤優とか竹本孝之、小西博之のものまねをテレビを見ながらやってたんです」
――ものまねのスタートはてっきりビートたけしさんだと思っていました。
松村「僕、中学生のとき、丸坊主だったんです。痩せてましてね。その頃、たけしさんが映画『戦場のメリークリスマス』に坊主頭で出演されていたんですけど、顔の形が似てるって友達に言われたんですね。『俺、たけしさんに似てるのかな』って、その時に思いましたね。それからです」
――へえ、たけしさんと見た目が似ていたことがきっかけだったんですか。
松村「『ひょうきん族』収録の時に鶴太郎さんが間に入っていただいて、たけしさんにお会いしたんですけど、本当にありがたいことに、それから僕のことをけっこう気にしていただいて。たけしさんの『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)にも呼んでもらって、多少失礼なこと言ってもいいような空気を作っていただいて、たけしさんのまねして喋ったり。『松村は俺のまねやりやがって、馬鹿野郎、ふざけんじゃねえ』って、そういう場面を作っていただきましたね、ええ」
最初は“隠れキャラ”みたいに…
――たけしさんの懐の深さが垣間見えますねえ。
松村「ヘリコプターからの中継でたけしさんと掛け合いをやったりとか。『アウトレイジ』の時は出演者のものまねでDVDのCMをやらせてもらいました。本当に良くしていただいています。『スーパージョッキー』や『お笑いウルトラクイズ』(ともに日本テレビ系)、いろんな番組に出させていただいて嬉しかったですね」
――たけしさんとの掛け合いなど、松村さんは番組に欠かせませんでした。
松村「だから、ちょっと勘違いしちゃいましたよね。たけしさんが良くしてくださるから、嬉しくなっちゃって。ちょっと調子に乗って、『自分のたけしさん』みたいな気持ちになってしまった。林家ぺーさんと初めて仕事した時も、大先輩のぺーさんを〝たけしさんの声色で騙す〟っていうロケでした。僕も若い時だったんで、勘違いしてた部分もあるんですけど」
――若気の至り、というところでしょうか。
松村「ぺーさんや高田さん、そういう方々と出会ってから、ちゃんと上の人に対する礼儀も大事だなと思いました。僕は弟子修業してないけど、そういうのを教わりましたね」
――高田文夫さんですね。松村さんは、高田さんの『ラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)のパートナーとしてもずいぶん長いですね。
松村「1991年くらいからですからね。最初は隠れキャラみたいに出していただいて」
――高田さんの存在も大きな刺激になったのでは?
松村「今日も高田先生のラジオだったんですけど、いろんな話を面白おかしく話されるんですよ。野球から昭和の演芸、新宿や浅草の歴史など、造形が深いにも程があるって話を。そういう話を聞かせていただけるのが、いい環境ですよね。僕は毎日のように電話で聞きたいくらいです。それはさすがに失礼だから聞けないですけど(笑)」
――高田さんとはどういう出会いだったんですか?
松村「ちゃんとお会いしたのは浅草キッドの紹介です」
――松村さん、浅草キッドは林家ぺーさんらとともに「関東高田組」と呼ばれていましたね。
松村「『お笑いウルトラクイズ』や『たまにはキンゴロー』(フジテレビ系)あたりでも一緒でした。浅草キッドの水道橋博士さん、玉袋筋太郎さんには本当に良くしてもらいましたね。2人はいつも前向きで、ルーズな僕を一緒にいろんなライブや芝居に誘ってくれたり、可愛がっていただいた恩がありますね」
「降板しときゃよかった(笑)」
――たけしさん、高田さん、浅草キッドさん、恩人たちとの共演もさることながら、松村さんといえば、『進め! 電波少年』(日本テレビ系)で大いに活躍されましたね。
松村「ロケは大変でしたけれど、まぁタレント以上にスタッフが大変ですよね。少人数でロケをして、いいVTRを作ってこないと怒られるわけだから」
――電波少年のロケは〝アポなし〟で有名でした。
松村「海外に行く時は『サイトシーイング』って言って撮影してました。〝観光〟だと。『なんか言われても言葉分かんないんだから、サイトシーイングだけ言ってろ』って」
――すごいゲリラ撮影!
松村「現地で『これはカメラじゃないのか?』、『サイトシーイング』って何を聞かれても、それ以外は言わなかったですね。カメラも家庭用ので撮って」
――うーむ(絶句)。
松村「マネジャーにダミーのスケジュール入れられてて、ドラマの撮影が終わってゆっくりしてたら、まだカメラが回ってる。『そのドラマのドキュメントのカメラかな?』と思ってましたが、よく見たら電波少年のスタッフで、『行くぞ』ってそのまま成田から海外ロケに行って」
――今じゃ絶対NGですね。
松村「マネジャーも着替えとか用意してくれればいいのに、本当に着替えもないんですよ。マネジャーが自分の着替えだけいっぱい持ってたから、さすがにあの時は人間を疑いました」
――(笑)。一番ヤバかったロケといえば?
松村「あんまり詳しくは言えないんですけど、タイの山奥で閉じ込められたんですよ。ロープで縛られて」
――それ、本当に番組のロケですか…?
松村「一応放送されましたね。あとはタイで小屋に閉じ込められた時は、ちょうど僕が番組を降板するかどうかのタイミングで、本気で『降板しときゃよかった』と思いました(笑)」
――そんな過酷なロケによく耐えられましたね。
松村「出川(哲朗)さんとよく話してたのは、『今回のロケどうだった』と聞かれて『いや苦しかったね』と言うと、『じゃあ大丈夫だよ。苦しかったんなら大丈夫だから』って、いいことを言ってましたね」
――体を張ってきた松村さん、出川さんの言葉は説得力があります。
松村「ラクで楽しいロケだと、『このあとに何かあるんじゃないか』って思いますよ(笑)。苦しいロケや怖いロケができるって、芸人としては恵まれてるんだなって思いましたね」
(文/牛島フミロウ 撮影/丸山剛史)
松村邦洋(まつむらくにひろ)
1967年、山口県出身。大学在学中、ものまねをテレビで披露したのをきっかけに、片岡鶴太郎に見出されて上京し、芸能界デビュー。ビートたけしや掛布雅之、高田文夫らのものまねや『進め!電波少年』(日本テレビ系)の出演で、即座に人気芸人となり、現在も各メディアで人気を博している。
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