――ご自身のYouTube『永野CHANNEL』でのロック談義、最高ですね。
永野「ほんとですか! リスナーとしてクソ真面目に聴いてたので、その思い出はしっかり覚えてるんです。マジで聴いてた音楽だけを喋ろうと決めてます。『永野CHANNEL』で商売しだして、ステマじゃないですけど、最近のバンドをさも本当に好きなように扱いだしたら終わりだと思ってます。ユーチューバーじゃないんで僕は」
――『僕はロックなんか聴いてきた』(リットーミュージック)も拝読しましたが、学生時代にはあまりいい思い出がなかったとか。
永野「幼稚園から中学まで、お金持ちの子とか頭のいい子が通うエリート校に通ってたんですよ。制服があるような。でも勉強ができなくて、落ちこぼれたんです。それがすごい劣等感で」
――孤独感も相当感じたようですね。
永野「自虐のかたまりでしたね。高校はヤンキー校に行くことになって、いじめられはしなかったですけど、エリート校から転落した奴だっていう周りの目も感じて、何も楽しくなかった青春でしたね。それだけに音楽にハマれたんですけど」
――芸人になろうと思ったきっかけは?
永野「高校の頃、ダウンタウンさん、ウッチャンナンチャンさんとか第三世代が流行ってて、6つ上の兄貴が福岡に住んでたんですけど、宮崎に帰ってくるときお笑い番組を録画してくるんですよ。それが、忘れもしない『夢で逢えたら』(フジテレビ系)でした」
――伝説の深夜番組ですね!
永野「なんて面白いんだ!って思いましたね。宮崎だと放送されてなかったんで、誰も知らないんです。友達と『すごい!』と言いながら見ましたね。新しい笑いを見て、それで分かった気になっちゃって、お笑いやろうって思ったんですよ」
標準語を話す相方とは組めない
――当時はバンドブームもありましたけど、音楽も好きだったということで、そっちの道は?
永野「全然なかったですね。自分の好きなものと自分の得意技は違うというのをハッキリ分かってました。洋楽も周りの子よりも聴いてて好きでしたけど、自分の得意技はお笑いだと勝手に思い込んでました。賞レースに出て勝つとか、芸人として売れるとかではなく、自分が持ってる個性みたいなものを出していけるのがお笑いだと思ってました。まぁ勘違いなんですけど」
――では高校を卒業してお笑いの道に?
永野「僕、学校とか好きじゃないせいか、教えてもらうことが嫌だったんですよ。理想だけ高くて、『お笑いって人に教えてもらうもんじゃないだろう』って。ほんっとに天邪鬼で(笑)」
――確かに(笑)。じゃあお笑いは独学ですか?
永野「上京して専門学校を卒業したあとNSCの東京校を一度受けたんですよ。そしたら落ちた。誰でも受かるはずのNSCに! それで普通の人のやることもダメだと思って、そこでもうメチャクチャひねくれて」
――挫折感を味わいつつのスタートだったんですね。
永野「コンビ別れしたからピン芸人で、って人が多いですけど、僕は最初からピンでした。今はそう思わないですけど、当時は標準語でお笑いやるのがすごく嫌で、標準語を話す相方とは組めねえと思ってましたね」
――徹底してひねくれてますね(笑)。
永野「でも最初からピンだと変なネタになるというか、すっごい気持ち悪いネタになった。マスターベーションですよね。だからやっぱり芽が出るのに時間かかって、23歳でやっとホリプロに拾ってもらったんです」
――ホリプロといえば大手事務所ですよ。
永野「もうすっごい狭いとこを狙った、お笑いの勉強もしてない、好き勝手なネタで、ですよ? それをただ面白がられて入ったのに、自信持って調子こいてて28歳でクビになりました」
「このまま死なねぇかな」
――また、エリートからの転落…。
永野「そうです。さすがに、これはやばいと。鬱々と4年間過ごして、今の事務所に来ないかって声かけてもらいました。ラッキーでしたよね。絶対辞めてるタイプの芸人ですもん(笑)」
――綱渡り状態ですねえ。
永野「若手の登竜門になってる有名なライブに僕は出られないんですよ。そういうネタも持ってないし、自分がやりたいネタっていうのはやっぱり地下芸人のライブでしかできないハードなものになっちゃうんです。当時でも絶対売れないっていうネタをやってて」
――当時の地下芸人ってどんな感じなんですか。
永野「インテリで思想が強い系とか、危ない政治ネタとか、ストリップみたいにマジで脱ぐみたいなのとか、怖い人がいっぱいいました」
――まさにアングラ!
永野「自分はそういうノリがないからどうしよう、よし周りを威嚇するしかない! と思って、生き延びるために『こいつはちょっと気が狂ってんだ』って思わせる武装をしたんですよ(笑)。そういう〝やばい筋肉〟をつけていったら、本当にハードコアなライブにばかり呼ばれるようになって(笑)」
――ちなみに、当時はどんなネタだったんですか?
永野「いやもう、精子がどう…とか、そんなんばっか(笑)」
――うわ、それはホントにやばいですね。
永野「で、40歳くらいで本当に追い込まれたんですよ。あんまり言いたくないんですけど、39歳で結婚もしたんです。もう責任から逃げられないなと思って、寝る前に『このまま死なねぇかな』とか考えたりしましたよ」
――そこまで!?
永野「事務所でもお荷物だったと思いますよ。それで、売れるにはどうしたらいいかって初めて考えたんです。それまでは、すごいですねとか人から言われたくてやってたんです。でも、売れるというのはそれとは違うと思った。その頃ちょうど、出演する音ネタ番組用に当時のマネジャーがフリー音源で音をいくつか作ってくれたんですよ。その中にラッセンのネタで使うあの音もあった」
賞レース目指す気もない
――あのBGMを作ったのはマネジャーさん?
永野「はい。気持ちが入り込みすぎるとネタってウケないんですけど、ラッセンのネタは僕本人もどこか俯瞰して『バカだなこれ』ってやったんです。そしたらウケた。『気持ち悪い』とか言われて。言われたことなかったんですよ、アングラのライブは気持ち悪いのが当たり前だから(笑)」
――納得です(笑)。
永野「それで『これは面白い』と思って、髪型とかも全部気持ち悪いほうに逆張りした。そうしたらすぐ『アメトーーク』(テレビ朝日系)に出られました」
――そんな撮って出しのネタだったんですか。
永野「だから自画自賛ですけど、本気になったら半年で売れたぞ! と思いました(笑)。でも、一時は思考が『どうやって子どもを笑わせるか』にしかいかなくなりましたね。今考えたら、自分のお笑いじゃないことをやってました」
――ラッセンは、狙ってやったネタだったんですね。
永野「だから一発屋とか、他人に分かったようなこと言われるのがすごい嫌ですね。俺自身がナメてやってるネタなんだから一番分かってるわ! と(笑)。だから、今はネタも元に戻しました」
――売れる前と後ではなにか変わりましたか?
永野「金で苦しまないというか、生活がちゃんとできるようになったのはすごく嬉しかったですね。でも、悩みが晴れるってことはないんだって思いました(笑)」
――そうなんですか?
永野「お世話になってる、大好きなイワイガワの岩井ジョニ男さんにも『売れたんだからもっと喜んだほうがいいよ』って言われましたけど、ずっと暗いままですよ。同じ事務所のサンドウィッチマンとかカミナリとか、みんな安定して見えますけど、僕はずっと鬱々としたまま。中学のときから変わってないですね」
――永野さんは今のスタイルのままいてほしいです!
永野「賞レース目指す気も全然ないし、僕は今どきの、いい大人系の芸能人にはなれないですから、自分の好きに行きたいと思ってますよ」
(文/牛島フミロウ 企画・撮影/丸山剛史)
永野(ながの)
1974年、宮崎県出身。高校卒業後に上京し専門学校に進学するも、ほどなく中退してお笑いの道に進む。一時期フリーだった時期もあり、「地下芸人」とも呼ばれたが、2015年ごろからラッセンネタなどで徐々にブレイク。現在はテレビやラジオのほかにYouTubeなどでも活躍している。
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