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尾崎将司「ゴルフは“心・技・体”ではなく“体・技・心”だ」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第10回

Krumao
(画像)Krumao/Shutterstock

かつて「ジャンボ軍団」を率いて日本ゴルフ界に君臨し、世界殿堂入りも果たした尾崎将司。

75歳になった今も、シニアツアーへ転身することなく「現役」を続行。約3年ぶりのツアー参加を目指して、トレーニングを続けている。

近年のゴルフ界は松山英樹の活躍もあり、海外での試合ばかりが注目される傾向にある。実際、昨年の国内男子の賞金王が誰かと問われて、答えられる人はどれほどいるだろうか。答えは米国のチャン・キムで獲得賞金は約1億2760万円。日本人では金谷拓実の2位が最上位であった。

日本のゴルフファンの目が海外へ向けられることになったのと同時に、レジェンド・ゴルファーについても、全米オープン準優勝の青木功や世界4大メジャーすべてでトップ10入りしたことがある中嶋常幸が、メジャー大会の解説などメディア上で目立っている。

その一方で青木、中嶋とともに「AON時代」を築いた尾崎将司については、近年あまり話題になることがない。

青木や中嶋に比べて「海外挑戦への意欲が希薄だ」とも評されることが多かった尾崎。日本ツアーを最優先とし、海外はメジャー大会に限っての招待枠などでの参加が中心だった。積極的に海外ツアーへ参加しなかったのは確かだが、実は東洋人で初めて海外メジャー大会で入賞を果たしたのは尾崎である(1973年にマスターズ8位)。そして、メジャー出場回数49回も、青木の42回、中嶋の37回を上回っている。

「日本のゴルフをスポーツに変えた」

海外での成績が振るわなかったのは、尾崎が常に自分のスタイルを崩さなかったからで、環境の変化に合わせることなく自分のゴルフを貫いた。

ロングやミドルホールの第一打はドライバーでかっ飛ばし、グリーンへのアプローチではベタピンで狙っていく。フェアウェイが狭いコースで、グリーンが速くカップが端に切ってあるメジャー大会では、当然ミスショットは増えるのだが、それでも尾崎はかたくなに日本と同じゴルフを続けた。

これはもしかすると、尾崎がもともとプロ野球の投手だったことと関係があるのかもしれない。

野球の投手は「いつもオーバースローだけど、今日はサイドで投げてみよう」などと、相手ごとにフォームを変えることは基本的にしない。キャンプの段階でしっかりフォームを固めて、それでシーズンを通すのが普通だろう。尾崎にはそうした感覚が、ゴルフに関してもあったのではないか。

尾崎の大きな功績の1つに、「日本のゴルフをスポーツに変えた」ということがある。尾崎以前の日本のゴルフ界は、「職人的な技を競う」という色合いが強かった。

しかし、高校時代は甲子園の選抜大会の優勝投手だった尾崎は、プロ入り後も1年目から一軍登板を果たしたスポーツエリートであり、身体能力の高さでは当時のプロゴルファーの中で飛び抜けていた。

強靭な肉体から300ヤードをぶっ放す…それも今のカーボンヘッドやそれ以前のメタルヘッドでもない、パーシモン(柿の木)のクラブでその飛距離を出せるとなると、日本人選手ではまさに規格外。「ジャンボ」の呼び名がつくのも当然のことだった。

現在もゴルフへの情熱は衰えていない

尾崎の登場によって日本のプロゴルフは、アマチュアの延長線上にある「紳士のスポーツ」から、本格アスリートが取り組む「スポーツ競技」へと進化したのである。

ちなみに、プロレスラーのジャンボ鶴田がそのリングネームを名乗ったのは、73年10月からのこと。尾崎のプロデビューは70年で、その際に「ジャンボ・プロ誕生」と報じられたというから、尾崎のほうが「ジャンボ」の先輩に当たる。

そんな尾崎はデビューの頃から、あえて「ゴルフは〝心・技・体〟ではなく〝体・技・心〟だ」と言い続けている。

いくら心が強くても、技術が未熟では試合に勝てない。高度な技術は体力がなければ獲得できない。つまり、ゴルフで勝てるようになるためには、体がすべての土台になるというのが尾崎の信条だ。

今では多くの日本人ゴルファーが、4日間のトーナメントを戦うために、筋力はもちろん体重を増やすことをトレーニングの一環に取り入れているが、尾崎はその大切さを50年も前から言っていたわけだ。

その結果として尾崎は、歴代国内最多となる通算113勝を積み上げた(そのうち国内ツアー制度が施行されてからの優勝は94回)。ツアー94勝は、青木の51勝の倍近くの数字だ。

さらに賞金王12回、メジャー大会20勝もダントツの日本一である。

実弟の尾崎健夫(ジェット)、直道(ジョー)、それに飯合肇(コング)らを加えた合同トレーニング仲間たち、いわゆる「ジャンボ軍団」は90年代までの日本プロゴルフ界を席巻した。

90年代後半以降は、スポンサー企業の経営破綻や自身の関わったゴルフ場開発などに絡んだ借金問題に巻き込まれ、世間的なイメージを大きく落としてしまった尾崎だが、ゴルフへの情熱は衰えていない。

再三のシニアツアーからの招待を断って、75歳になった今もツアー参加を目指してトレーニングを続け、原英莉花、笹生優花ら女子選手を含む後進の育成にも余念がない。

《文・脇本深八》

尾崎将司
PROFILE●1947年1月24日生まれ。徳島県出身。徳島海南高のエースとして春の選抜大会で優勝。65年にプロ野球の西鉄ライオンズに入団するも結果を残せず、67年に引退。プロゴルファー転向して大成する。

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