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大松博文「俺についてこい!」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第9回

Adam Vilimek
(画像)Adam Vilimek/Shutterstock

1964年の東京五輪で金メダルを獲得した〝東洋の魔女〟こと全日本女子バレーボールチーム。

優勝決定戦となったソ連との全勝対決が平均視聴率66.8%を記録するなど、国民的熱狂を生み出した立役者が大松博文監督だった。

〝東洋の魔女〟と聞けば大半の人が、全日本女子バレーボールチームが東京五輪で金メダル獲得した場面を思い浮かべるだろう。だが、この原型となるチームは、もともと五輪を目指していたわけではない。

1953年11月、大日本紡績(日紡=現在のユニチカ)は各地の工場ごとにあった女子バレーボール部を貝塚工場に統合させることになり、翌年3月より日紡貝塚が編成された。当初の目標は「日本一のチームをつくる」ことで、まだバレーボールは五輪の正式種目になっておらず、まさに「遠い夢の話」だったのだ。

そんな日紡貝塚の監督に就任したのが大松博文である。

関西学院高等学部商科(現・関西学院大学商学部)のバレーボール部時代に全日本総合で二度優勝の経歴を持つ大松は、卒業後の41年に日紡へ入社。ところが、間もなく大日本帝国陸軍に召集されて、中国、ビルマ、ラバウルなどを転戦し、生き地獄と伝えられる「インパール作戦」にも従軍することになる。

そんな過酷な戦地での体験もあってか、監督となってからの大松はスパルタ式のトレーニングを選手たちに課すことになった。大松は「2年で日本一」の目標を掲げ、部員たちは盆暮れの休みもなく「強くなるには練習のみ!」と、仕事を終えた後の夕方から深夜にかけて、時に10時間にも及ぶ練習を続けた。

海外では6人制が主流だった

人呼んで「鬼の大松」。実際、主将である河西昌枝の父が危篤との報が届いたとき、帰郷を求める河西に対して「練習が終わったら帰っていい」と言ってのけて、彼女から「この鬼!」と罵倒されたこともあったという。

チーム結成当初は新卒の部員が中心で、全国の上位に進出することはなかったが、それでも「負けては練習」を繰り返すことで着実に成長していった。

そうして大松の宣言通り、55年には全日本9人制バレーボール実業団女子選手権大会で初優勝。58年には当時、日本国内の4大タイトルとされた「全日本総合選手権」「全日本実業団女子選手権」「全日本都市対抗」「国民体育大会」を独占するまでに成長した。

日本一になるという目標を達成すると、次に大松は「世界」を目指した。だが、これには大きな問題があった。当時、日本のバレーボール界は9人制がほとんどだったのに対して、海外では6人制が主流になっていたのだ。

6人制ではルール以前の問題として、まず選手に求められる動きや運動量が違う。それに対応しつつ、体格に勝る海外勢と戦っていかなければならない。

そこで大松は、60年にブラジルで開催される世界選手権大会を新たな目標に定め、過酷な練習を部員たちに課すことになった。

この世界選手権でチームはいきなり準優勝の快挙を果たすが、それで満足する大松ではない。この大会で優勝したソビエト連邦の打倒を目指し、さらなる猛練習に明け暮れることになる。

そんな中で大松が、柔道の受け身を取り入れて編み出したとされる「回転レシーブ」だが、当時の選手の証言によるとやや事情は異なるようだ。

コートの端から端まで飛び込むレシーブの練習を課せられると、体中がアザや擦過傷だらけになる。しかも、一瞬でも気を抜けば大きな故障を起こしかねない。それぞれが試行錯誤しながら体得していったのが、回転レシーブだったという。

現役続行か引退か…

常軌を逸した練習は、むろん大松がやらせていたものであったが、その一方で選手たちも、理不尽なまでのしごきに「なにくそっ!」と食い下がったからこそ、大きな成長につながったのだろう。

61年に欧州遠征を決行した日紡貝塚は24連勝を記録。チームの代名詞となる〝東洋の魔女〟の呼び名は、この時にソ連メディアによって命名されたものだ。

そして、翌年にモスクワで開かれた世界選手権では、見事に打倒ソ連を果たし、日本初となる球技の世界大会での優勝を達成した。

また、同時期に東京五輪でのバレーボール採用が決まったこともあり、この時の日本の盛り上がりようは相当なものだったが、実のところ大松はこの世界選手権を機に、結婚適齢期を迎えていたチームの主力メンバーを引退させるつもりだったという。

この当時には、女性が結婚後もスポーツを続ける環境がなく、引退は大松の配慮であり、また選手たちもそれを望んでいたのだ。

だが、それを日本国民は許さなかった。「五輪金メダルの可能性がありながら逃げるとは非国民だ!」というわけだ。

現役続行か引退か、大松と選手の間で丸々10日近く話し合いが持たれ、結果は現役続行。やるからには勝たねば意味がないということで、大松は「俺についてこい!」と、さらに厳しい練習を強いることを宣告したのだった。

なお、大松は五輪後に引退した後も〝魔女〟たちのことを気に掛けて、そのうち4人に結婚相手を紹介したという。

《文・脇本深八》

大松博文
PROFILE●1921年2月12日〜1978年11月24日。香川県出身。64年の東京五輪で全日本女子バレーボールチームの監督を務め、過酷な練習と守備を重視した戦法により、同チームを金メダルに導いた。

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