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『昭和猟奇事件大捜査線』第14回「眠る幼子のそばで殺害された母、犯人が語った“場違いなエピソード”」~ノンフィクションライター・小野一光

Piotr Zajda
※画像はイメージです(画像)Piotr Zajda/Shutterstock

「あんた、なんかお隣がおかしかとやけど…」

昭和30年代の冬のある朝、北部九州にある某県K町で布団店を営む坂口一郎(仮名、以下同)は、こたつで新聞を読んでいるときに、妻からそんな言葉をかけられた。

お隣とは、駄菓子屋兼バスの切符販売を営んでいる諸岡家のこと。夫が結核のため数年前から入院し、幼児を抱えた妻の諸岡由紀恵(30)が、普段ならば店に出ているはずだ。

由紀恵は近所でも評判の美人で、彼女は毎朝店先の掃除をしているのだが、その日は物音ひとつせず、玄関の表戸が30センチほど開かれたままになっている。

そこで一郎が諸岡家の半開きになっている表戸を開け、上り口から奥の4畳半の部屋を何気なく覗き込んだところ、由紀恵が寝間着姿のまま、仰向けに倒れている姿が目に入った。

慌てて近づくと、彼女の首には紐が巻かれている。一郎は悲鳴を上げると、すぐに所轄のH署に駆け込み、状況を伝えたのだった。

この知らせに、H署の捜査員と県警本部から捜査、鑑識課員が駆け付け、現場の状況から殺人事件であることが明らかなため、ただちにH署に捜査本部が設けられた。

諸岡家は4坪半の表店舗と、奥に4畳半と6畳の部屋がある木造の平屋。由紀恵の死体は、4畳半の部屋の中央にあった。顔にはタオルがかけられ、首にはスプリングコートの端切れがタオルの上から巻き付けられ、その端末は寝間着の首元にねじ込まれていた。

奥の6畳間には布団が敷かれており、そこでは由紀恵のまだ幼い長男がぐっすり眠っていた。捜査員はその無邪気な姿に、犯人への怒りを駆り立てられる。

4畳半と6畳の部屋の窓はいずれも内側から鍵がかかっており、出入りは表戸からであると推測された。

炭鉱主の愛人だった過去も

由紀恵の死体はただちに解剖に回され、その結果、次のようなことが明らかになった。

○胃内容物から死亡推定は、食後1時間以上、2時間以内
○死後経過時間は12〜15時間(解剖時)
○胃内容に毒物は認められない
○膣内に精液は認められない
○死因は頸部圧迫による窒息死

また、採取資料、現場検証の結果などから、以下のことが推定されている。

○犯行時刻は、解剖結果および(家の前の)バス時刻からみて、死体発見前日の午後11時前後。被害者の着衣ならびに4畳半の部屋の状況から、就寝前と考えられる
○侵入口は各窓、戸の施錠の状況から店舗のガラス戸と思われ、表出入口は㋐無施錠であった㋑店仕舞い前の開放時であった㋒被害者自身が戸を開けた、等が考えらるが、㋒が最も妥当と思われる
○発見された被害者の前掛けから夫以外の精液斑を認めるも、暴行の事実は認められず、また、金品強奪の事実はあるが、侵入方法に強行的な点が認められないから、動機は痴情、物盗り、いずれとも断定できないが、いずれにせよ、敷(なんらかの関係)のある者の犯行と推定される。従って、捜査方針としては、「痴情」「物盗り」の両面捜査を推進することとする

捜査員が調べたところ、美人である由紀恵は男関係も多く、未婚当時に関係があったことが明らかになった者だけでも6名いた。また、炭鉱主の愛人になった過去もあった。

夫もそうした彼女の過去を肯定しており、「痴情」の関連で、事件の解決は時間の問題であると思われた。

しかし、「痴情」の線で最も有力な容疑者であると目された、F市内在住の運転手・加納達也(29)も、徹底した捜査の結果、由紀恵と肉体関係はなく、完全なるアリバイが成立したことから、容疑者リストから消えてしまう。

一方の「物盗り」の線でも、犯人の足取り捜査、素行不良者、飯場関係者の捜査、ぞう品捜査、事件前後の行方不明者の捜査等で、捜査員が聞き込みを行うも、有力な情報が集まらない。

県警の鑑識課は、事件発生とともに、各県警にも協力を求め、この事件を手口的に検討し、強盗、窃盗、詐欺等の同一手口を捜すため、約1万6000枚の手口原紙との対照を行ったが、類似者は現れなかった。

「こうなれば指紋を徹底的に調べるんだ」

ついに一致する指紋を発見

犯行現場からは、数十個の現場指紋が採取されていた。そのうち関係者のものとの選別を行った結果、たんす下部の指紋1個、ジュース空き缶の指紋2個、火鉢の指紋1個が、関係者とは一致しない。

ジュース空き缶の2個の指紋のうち1個は、左手中指と推定され、たんす下部の指紋がこの中指と完全に一致した。また、火鉢の中からジュース缶の空き蓋が発見されていることから、この4個の指紋は、犯人のものである可能性が高いと推定された。

この当時、県警本部の鑑識課に保管されていた一指指紋票は約15万枚。鑑識捜査員は地道にこれらと遺留指紋の対照作業を行う。

また、そうした作業をやっていく間にも、捜査本部からは次々と、新たな容疑者および関係者の指紋が上がってくる。それらだけでも2600人分に達した。

だが、それでもなお、該当する指紋には行き当たらない。

とはいえ、県警本部鑑識課では、指紋による犯人割り出し以外に早期解決の途はないと考え、その他の指紋票も加えた、約30万枚についての総当たりを決意したのである。

そして事件発生から約2カ月後、鑑識捜査員の努力が実り、ついに一致する指紋を発見する。それは指紋対照作業を始めて、17万9千数百枚目のことだった。

該当した人物は、無職の嵯峨幹彦(35)といい、かつて故買で前科のある男である。捜査員は嵯峨の身辺捜査を行い、そのうえで強盗殺人容疑の逮捕状を得て、情婦宅に潜伏中の彼を逮捕したのだった。

H署の取調室で取調官と対峙した嵯峨は嘯く。

「由紀恵さんとは肉体関係ができ、いつも私が行くのを待つようになっていました。犯行当夜は、彼女が主人の入院中に不倫の関係になって世間に恥ずかしいし、生活に楽しみもないから殺してくれと口にし、時計と指輪は形見に持って行ってくれと言われました」

そう言って嵯峨は嘱託殺人であることを訴える。だが、現場の状況を考えると矛盾点が多い。取調官がその点を厳しく追及したところ、ついに強盗殺人の事実を自供したのだった。

嵯峨は10年ほど前から競輪、競艇、麻雀に凝り、そのうえ妻子があるのに情婦を囲うなど、乱脈な生活を続けていた。そうした結果、借金もかさみ、生活は破綻。当時、警備員の仕事に就いていたことから、退職金で借金を返済しようと考えたものの、それもギャンブルと情婦につぎ込み、金策に奔走していたと語る。

犯行当夜、情婦と借金のことで口論となった嵯峨は、自宅に帰ろうとして、由紀恵のいる商店の前にあるバス停留場に行く。そこでバス代がないことに気付いたのである。

当初から殺害を考えていた

しかし、いまさら情婦のところへ引き返すわけにもいかず、目の前の商店には女性と子供しかおらず、バスの切符販売や駄菓子販売を行っていることから現金もあるだろうと考え、その場の思い付きで犯行を決意したのだった。

嵯峨は当初から殺害を考えていたと語る。

「バスの切符を買うふりをして、由紀恵さんを呼び、彼女が雨戸を開けたところで、やにわに店内に入り、いきなり両手で首を絞めました。顔を見られているのだから、最初から殺すつもりでした」

必死で抵抗する由紀恵を嵯峨は土間に押し倒し、首を絞める手にさらに力を込めたところ、彼女はついに動かなくなった。

「ぐったりした由紀恵さんを奥の部屋に抱えて連れて行き、彼女の肩の近くにあったタオルを顔に被せ、外から見つかるのを恐れて、目についたスプリングコートで電灯を覆いました。あと、生き返られても困るので、コートの切れ端の布を、タオルの上から首に巻き付けて縛り上げたんです」

そこで、由紀恵の手指が土砂で汚れ、着衣が乱れているのを見て、「すまない」気がしたのだという。

「タオルを使って、死体の手指を拭いたんですが、左手の指に金の指輪があるのを見て、これを抜き取りました。それから彼女の裾の乱れを直し、さらに奥の部屋に入って、長男が寝ている枕元の箪笥を物色したんです…」

だが、現金は発見できず、引き出しの中に女物の腕時計を見つけたので、それを盗む。そうしたところ、喉の渇きを覚えたため、店舗の陳列棚から缶ジュースを盗って飲み、空き缶を上り口付近の土間に置くと、表戸から逃走したのである。

あまりに短絡的な思考で実行された凶悪犯罪に、取調官が怒りを通り越して呆れるなか、調子に乗った嵯峨は、さらに場違いなエピソードを口にする。

「そういえば逃げようとしたとき、土間のところに由紀恵さんの下駄が散乱していたので、それをきちんと揃えてから逃げました」

この男に反省という感情はないと、取調官が実感した瞬間だった。

小野一光(おの・いっこう)福岡県北九州市出身。雑誌編集者、雑誌記者を経てフリーに。『灼熱のイラク戦場日記』『殺人犯との対話』『震災風俗嬢』『新版 家族喰い――尼崎連続変死事件の真相』など、著者多数。

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