エンタメ

『昭和猟奇事件大捜査線』第1回「犬神家の一族を彷彿とさせる“川から白い足”の死体」~ノンフィクションライター・小野一光

※イメージです(画像)grafxart / shutterstock

「川に浮かんだ布団袋から人間の足が出とるんです」

昭和30年代の夏のある日、福岡県警に110番通報が入った。K町を流れるK川で、麻縄で縛られた布団袋が浮いているのに気付いた農家の田崎義男さん(仮名、以下同)が、袋の破れ目から、人間の白い足が出ているのを見たという。

通報を受け、K署の係員が現場に急行したが、豪雨によって川の流れが早く、すでにその場から布団袋は下流に流されていた。

その約30分後、今度は別の110番通報が入る。それは、先の現場から下流にある橋の上から布団袋を見つけた男性が、袋の破れ目から人間の腕らしきものが見えたという内容だった。

2件の通報があったことで、布団袋に詰められた遺体がK川を流れている可能性が高いと判断したK署は、翌日になって署を挙げての捜索を行った。

「死体が川の沿岸に打ち上げられています」

そう通報があったのは、最初の目撃情報から2日後のこと。前の現場から約18キロ下流の地点だった。

死体は両足を揃えてうずくまったような姿勢で、えび茶色の布団袋に包まれていた。その上から麻縄が不規則に巻かれている。

布団袋から死体を出したところ女性だと判明。身長157センチほどで、髪にはパーマがかかっていた。長時間水に浸かっていたため、すっかり膨張し、表皮は剥げ、流された際にできた傷が体のあちこちに認められた。

着衣は、白地に水玉模様のムームーと白いシュミーズ、花柄のパンティーで、左手首にはめられた時計は2時23分を指している。

解剖の結果、直接の死因は頭部と頸部に数カ所ある深い傷だと推測され、重みのある鋭い刃物でつけられた大きな切創だった。当時の気温、うじの発生状況、死体の腐乱程度から、死後4日くらい経過していると認められた。

また、歯の摩滅状況などから、年齢は20歳から30歳と推定され、陰部に鶏卵の半分くらいの大きさのニカワ状の固形物が数個あり、後の精密検査で、6~7カ月の胎児の頭蓋骨が割れたものであることが分かった。つまり、彼女は死亡時に妊娠していたのである。

「被害者の身元をなんとしても突き止めろ」

K署に設置された捜査本部で、幹部から檄が飛ぶ。

10日前に外出したまま帰宅していない…

そうしたなか、被害者の所持品について調べていた捜査員から有力な情報が届いた。被害者の時計のバンドを「うちの店で取り替えたものだ」という時計店が現れたのである。

「たしかカワムラという名前の女の先生でした」

とはいえ、それ以上の情報はなく、「女教師カワムラ」についての捜査を徹底することになった。時計店があるのはK市だったため、まず市内やその近隣の学校で同姓の教師がいないか捜査が始められた。

すると、K市内の小学校に、川村恭子という33歳の独身の女教師がいることが判明する。ちょうど夏休み期間中だったため、捜査員はY町にある恭子さんの実家へ向かった。

実家の両親は、恭子さんが10日前に外出したまま、帰宅していないと語る。その際はどこかへ旅行に出かけたのだろうと心配していなかったが、4日前に彼女から〈借金処理のこと、出校日に欠勤したことなどで家出をするが、死ぬようなことはないので、そっとしておいてもらいたい〉との手紙が届き、あちこち心当たりを聞いて回っている最中だったという。

そこで恭子さんの周辺への聞き込みを強化したところ、同僚で彼女と親しい間柄にあった田口美香さんが、捜査員の度重なる説得により重い口を開いたのだった。

「恭子さんは2年くらい前から、S小学校に勤める鎌田康雄先生と親しい仲になってたんです」

鎌田は恭子さんより6歳年下で既婚者だった。

「鎌田先生が結婚してからも、恭子さんとの関係は続いていました。それで実は、恭子さんが最近妊娠したので、2人で駆け落ちするということになっていたようです」

家出した日、恭子さんは美香さんのもとを訪ねており、「明後日、島根県のM市に鎌田さんと駆け落ちすることになったが、この手紙を家に出してもらいたい。それから、M市に着いたら連絡するから、この通帳から預金を全額下ろして送ってもらいたい」と、父親宛ての封書と預金通帳を預けていったというのだ。

美香さんが被害者の遺留品についても、すべて恭子さんのものであると認めたことから、被害者が恭子さんであるとの可能性はますます高まった。捜査員は恭子さんが勤務する小学校に協力を求め、彼女が使っていた書籍や書類から指紋を検出し、死体の指紋と照合したところ、完全に一致したことから、被害者は恭子さんであると断定された。

重要参考人として浮上した“教育者”

一方、死体を梱包していた布団袋や麻縄、さらに凶器についての捜査をしていた捜査班からも、有力な情報が上がってきた。

K町の雑貨店を3回にわたって訪問していた捜査員に対し、店主が「絶対に他言しないでほしい」と言って、耳打ちしたのである。

「実は○日の夕方、S小学校の鎌田先生が見えて、斧を1丁、麻縄を5本買っていきました。それから、その少し前にも男の声の電話で、『布団袋はないか』というので、山田商店にあることを教えてやりましたが、どうも鎌田先生の声のようでした」

捜査員がその足で山田商店に向かったところ、鎌田の注文を受けて、彼のもとに布団袋を届けていたことが分かった。

重要参考人である鎌田へは、教育者であるという立場を考慮して、警察署ではなく、T警察署長公舎に出頭を求めて、事情を聴くことになった。

捜査員を前に鎌田は恭子さんとの関係については否定しなかった。3年ほど前から、近隣の町の旅館で人目を避けて彼女と泊まっていたことを認めたのである。

ただ、前年の春に父親の勧めで小学校教師の女性と結婚してからというもの、それから2カ月くらいは恭子さんと関係を続けたが、今年春に長男ができてから、それも遠のいていると話す。最近、恭子さんが妊娠したことは聞いたが、それは自分の子ではないと否定した。

しかし捜査員は事前に、この年の初夏まで鎌田と恭子さんが、近隣の町の旅館で宿泊していたとの裏付けを取っていた。そのことを追及されて、鎌田は恭子さんの妊娠は自分の責任であることを認めたのである。

とはいえ、肝心の事件の話になると、「仮にも教育者の地位にある者が、殺人などという大それたことをするはずがない」と、頑として認めようとしない。

だが捜査員に焦りはなかった。彼が麻縄や斧などを買った事実を突きつけ、その用途を問いただすと、答弁に窮してしまったのである。互いに黙って約20分後、捜査員は問いかけた。

「斧はどこに置いてある?」

鎌田は俯いて30分ほど沈黙した揚げ句、ついに観念して恭子さん殺害と死体遺棄を自供したのだった。

「赤ん坊を産んで家に送り届けてやる」

供述によると、事件の2日前、小学校で当直をしていた鎌田のもとに、恭子さんから電話が入った。

「お腹が目立つようになったので、昨日から家出をしています。話があるから会ってもらいたい」

その日は当直を理由に断ることができたが、翌日、職員室入り口の郵便受けに、鎌田に宛てた彼女からの手紙が入っていた。

〈いっしょに逃げてくれないなら、あなたの家族に一切を話します〉

追い詰められた鎌田は、斧を見せて彼女を脅し、それでも言うことを聞かないのなら、殺してしまおうと考える。

〈いっしょに逃げて下さい。さもないと週刊誌にばらします。これは女の執念です〉

翌日、再び恭子さんからの手紙が届き、いよいよ鎌田は、最後の手段以外は考えられなくなった。

その日の夜、恭子さんと人気のないバス停で待ち合せた鎌田は、彼女を田のあぜ道の奥に誘い出す。

鎌田はなんとか恭子さんを言い含めようと、1時間以上説得したが、彼女は駆け落ちすることを頑として譲らない。

「赤ん坊を産んで、あなたの家に送り届けてやる」

進退きわまった鎌田は、恭子さんに斧や布団袋、麻縄を見せ、「俺も仕方ないから、お前を殺して、これに詰めて埋める」と脅した。

だが恭子さんは怯まなかった。

「殺せるなら殺して」

興奮して大声を上げる。鎌田はその言葉にかっとなり、あとは我を忘れて斧を振り下ろしていた。恭子さんは田のあぜに崩れ落ち、鎌田は全身に返り血を浴びて、呆然とその場に立ち尽くしていたと語る。

やがて鎌田は恭子さんの死体を布団袋に詰めて結束。そこから約700メートル離れたK川まで引きずると、川面に投げ込んだのだった。

その後、恭子さんの所持品や斧を風呂敷に詰めて宿直室に戻った彼は、後日、学校から離れた場所にそれらを埋めている。

「しかたなく殺したんだから、罪は軽いはずだ。子供が学校から出る頃には懲役を終えて家へ帰れるだろう。それまでの辛抱だ」

逮捕後の鎌田は悪びれることなくそう口にし、教師とは思えぬその発言に、捜査員は呆れ果てたという。

小野一光(おの・いっこう)福岡県北九州市出身。雑誌編集者、雑誌記者を経てフリーに。『灼熱のイラク戦場日記』『殺人犯との対話』『震災風俗嬢』『新版 家族喰い――尼崎連続変死事件の真相』など、著者多数。

あわせて読みたい