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『ピンク映画60周年』時代を彩った名監督3人――若松孝二/向井寛/山本晋也

(画像)dpaint / shutterstock

日本のエロス文化に確固たる足跡を残してきた『ピンク映画』。

特に活況を呈していた1960~1970年代は、時代を彩る名監督を輩出した。

「ピンク映画は短い撮影スケジュールと低予算で作られる。その上、60分前後の尺に、4本のカラミを入れることが必要。この条件でストーリーを融合させるには、高い演出力が要求される。だから、この世界で名を成した監督はプロの中のプロと言っていい」(映画評論家)

そんなピンク映画の名を高めた3人の異才を見ていこう。まずは〝ピンク映画の巨匠〟と呼ばれる若松孝二監督だ。

彼は高1のときに家を飛び出し、宮城から東京に出てくる。そして、さまざまな職に就き、最終的に27歳で映画監督となった。

デビュー作は『甘い罠』(63年)で自ら製作費(150万円!)を出して撮影した。以来、2012年の秋に亡くなるまで、スキャンダラスな作品をエネルギッシュに次々と発表。ピンク映画の枠を超え、映画界に大きな足跡を残した。

「自由奔放に我が道を歩んできた映画人。最初から自分の金で撮っていたように、自分がいま何を撮りたいのか、そこにウエートを置いて活動してきた。常に時代を見据えながら、その目は海外にまで向いていた。そこが凄いと思う」(映画ライター)

若松監督が最初に話題となったのは、ベルリン映画祭に出品した『壁の中の秘事』(65年)が内外で国辱騒ぎとなったこと。テレビの討論番組で「あんなのは映画じゃない」「いや、いまの日本の閉塞状況がリアルに描かれている」と、激論が交わされたほどだった。

この作品を皮切りに、サドマゾ作品『胎児が密猟する時』(66年)、唐十郎が看護師を大量殺戮する『犯された白衣』(67年)も海外に持っていく。

あの時代に、そういうことをしていた映画人は若松監督ぐらいだ。演出はアグレッシブ。女優にまで罵声を浴びせて徹底的にしごいていた。

犯されて苦悶の表情を見せる際は、自ら女優の太ももをツネっていたほどだ。これによって、強姦される苦痛の表情をリアルに見せることができたのだ。

経理(お金)を疎かにしたら映画は作れない!

ピンク映画を若松監督とともに引っ張ってきたのが、向井寛監督だ。27歳のときに『肉』で監督デビューし、それがヒット。ドキュメントタッチで女性の情念が的確に描かれていると、作品的にも高い評価を得た。

その後、『砂利の女』『密戯』を立て続けに撮り、ピンク映画界で確たる地位を築いていく。以降、08年に亡くなるまで、200本ほどの作品を監督したほか、500本に上る作品をプロデュースしてきた。

特筆すべきは、海外でも受けたこと。60年代に量産されたピンク映画は、海の向こうでも見られるようになったが、映像感覚が優れていたためダントツの人気を集めた。

『禁じられたテクニック』(66年)や『餌』(66年)、『続・情事の履歴書』(66年)などは、ヨーロッパの主要国で上映され、総計10万ドルほど稼いだという。

女優の扱いに長けていたことも見逃せない。ネグリジェ歌手だった内田高子の魅力を引き出しただけでなく、『餌』では脱がない女優として知られた城山路子を籠落させてみせた。

さらに、新人の発掘にも手腕を発揮した。のちに日活ロマンポルノで華を咲かせることになる白川和子、山科ゆりなどは彼が発掘し、演技指導したことで本物の女優になっていった。

ちなみに、白川和子とはかなり親密な仲だったことが、村井実氏の著書『はだかの夢年代記 ぼくのピンク映画史』(大和書房)の中で書かれている。

そして、忘れてならないのは若手の映画人を数多く育てたこと。向井監督が経営する獅子プロには、何人もの助監督がいて次々と監督になっていったが、その中には『おくりびと』(08年)で日本映画初のアカデミー賞外国映画賞を獲得した滝田洋二郎監督もいた。

向井監督は名伯楽でもあったのだ。

「向井監督は映画を作るときに、一番ダメなのは経理(お金のこと)を疎かにすることだと言っていた。あの世界、どんぶり勘定で済ませることが多かったですから。その点、彼は経理をしっかりさせて仕事を進めていた。そういう意味でもプロだったと言えます」(スポーツ紙映画記者)

飽くなき探求心が面白さにつながった!

3人目は山本晋也監督。山本監督といえば、テレビタレントと思われる人が多いかもしれない。ワイドショーのリポーターやコメンテーターとして見ることが多いから、それも当然だろう。しかし、れっきとした映画監督であり、日本でピンク・コメディーというジャンルを開拓したパイオニアでもある。

神田生まれの江戸っ子。中学時代から落語が大好きで、カバンを抱えながら寄席に通っていた。63年に日大芸術学部を卒業すると、岩波映画での助監督を経て、ピンク映画の世界に入った。

2年後、25歳で監督デビュー。作品は『狂い咲き』(65年)で、松井康子主演のスリラー仕立てのシリアスな作品だった。以来、250本ほどの作品を作ってきたが、その多くはコメディーである。

山本監督が個性を発揮するのは69年の『女湯物語』からだ。当時、テレビでは銭湯を舞台にしたホームドラマ『時間ですよ』(TBS系)が人気を呼んでいた。しかし、放送コードもあって、女湯の裸はチラ見せ程度だった。山本監督は「なら、たっぷり見せてやろうじゃないか」と思って、映画を作ったという。

撮影するにあたって、銭湯のおやじさんに頼み込み、連日のようにボイラー室から女湯をのぞき込んだ。何日かすると、アソコの洗い方で女性の職業や、あるいは処女であるかどうかまで分かったという。この飽くなき探求心が、作品の面白さにつながっていったことは言うまでもない。

もう1つ見逃せないのは、アドリブを重視したこと。役者には好きにしゃべって、動き回ってもらっていた。

山本監督は、強い女に虐げられる弱い男の嘆きを好んで描いてきた。代表作となる『女湯』『痴漢』『未亡人下宿』の3つの人気シリーズとも、ほとんどがそのバリエーションから成立している。

映画を見ていると、誰もが自分自身のような気がしてくるから不思議だ。山本監督によると、自身が恐妻家のためにそのようになったという。

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