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吉幾三“デビュー50周年”新春インタビュー!「おらの人生を変えたスターたち」

吉幾三
吉幾三 (C)週刊実話Web

――新曲『ふるさとチョイス』拝聴しました!

吉幾三(以下、吉)「イントロが『俺ら東京さ行ぐだ』そっくりでしょ?」

――ええ、驚きました(笑)。

吉「アレンジ担当を訴えてやろうかと思ったんですけど(笑)、『俺ら東京さ行ぐだ』も彼なんでね。だったら似せちゃえってことで」

――ミュージックビデオではラッパー姿でしたね。

吉「ラップっぽく歌を書いたんで、撮影の衣装合わせの時にラッパーっぽい衣装を選んだんですよ、僕自身で。チャラチャラ付けてるアクセサリーも、私物の24金のブレスレットとか金無垢のロレックスですから」

――すごくハマってました(笑)。ミュージックビデオもぜひ皆さんに見ていただきたいですね。ところで、今年はいよいよデビュー50周年ですね。

吉「僕は人に恵まれましたね。家族も含めて、人に恵まれて今日があるんだなと」

――まず大きな出会いは、15歳で上京して師事した米山正夫先生ですか?

吉「米山正夫先生には姉の夫、義兄の伝手で弟子入りしました。確か当時2万円くらいのレッスン料を払って週に一度通ってましたね」

米山正夫さんは、昭和を代表する作詞・作曲家。「歌姫」美空ひばりさんがレッスンを受けていたことでも知られている。

――米山先生との思い出はありますか?

吉「君は面白い発音するね、って言われたよね。たとえば〝きみ〟の〝き〟は、津軽では〝くぃ〟と発音するんですよ。だから〝虹は消えない〟も〝ぬぃずぃはくぃえない〟となる(笑)。そこだけ気を付けてってよく指摘されました。米山先生はとにかく顔が広かったですからね、いろんな出会いをさせてくれるんですよ」

――吉さんが、アイドル歌手・山岡英二としてデビューしたのも米山先生が?

吉「『ヤン坊マー坊天気予報』の曲を書いたのは米山先生だから、ヤンマーディーゼルのほうから『若い子で、CMソングを歌ってくれる子いねえか』と相談があって、僕に白羽の矢が立った。今だから言えますけど、演歌でデビューしたかったんですよ。ただ、演歌だったらデビューできたか分かんないしね、良しと考えないと。山岡英二という名前をいただいたのもありがたいなと思います。ヤンマーさんが全面的に応援してくれましたから」

――山岡英二として活動しつつ演歌は意識していた?

吉「やっぱりいつも頭の中には演歌や歌謡曲がありましたね。親父が民謡歌手だったから、こぶしのまわる演歌とか好きだったんで」

千昌夫さんがいなかったら…

吉さんの父親は、津軽民謡の名手・鎌田稲一さん。青森県民謡大会で過去ただひとり3連覇を成し遂げた伝説的な人物である。

吉「東京に出て歌手になりたいって言ったら、親父に『バカか』って言われました。やっぱり自分がやってきたからでしょうね。歌謡界と民謡界は違うけれども、そんな簡単に行くもんじゃないよって。頓挫して帰ってくると思ってたらしいですよ。僕のほうは『出てきた以上、帰れねえだろうな』と思ってました。山岡英二時代、地方のキャバレーまわりをしてたんですが、青森に来たときも、心理的に故郷にはまだ寄れない。それが一番つらかったなぁ」

――苦労が耐えなかった山岡英二時代を経て、我々が知る「吉幾三」になったのは1977年、ヒットした『俺はぜったい! プレスリー』からでしたね。

吉「僕はその一発で終わると思ってた。借金だらけだったから、取りあえず入ってきたお金でみんな返しちゃった。返したら何もないから、また借りなきゃいけない。それで、千昌夫さんに相談したんです」

千昌夫さんとは、『俺はぜったい! プレスリー』のヒット中に出会い、意気投合していたという。

吉「千さんが、さっき聴かせてくれた『おど』って歌を俺に売ってくれ。お前は『離村者』、あの曲をうちのレコード会社でやれと。そしたらお金貸してあげると」

吉さんが作詞作曲した『おど』は『津軽平野』として、『離村者』は『俺ら東京さ行ぐだ』とタイトルを改してレコード発売。いずれも大ヒットとなった。

吉「両方とも原盤権は千さんが持ってるんですよ。それだけじゃなく『雪國』も『酒よ』も、権利関係は千さんが持ってる。『雪國』1曲で総売上数十億ですよ。権利を売ってくれって言ったら、ヤダって言うんだよね。『いや、これでも(お金が)入ってきてるから』って。『お前は一生離さない』って言ってますよ(笑)。それでも僕が腹立たないっていうんだから」

――(一同笑)そうなんですか。師弟のような関係だと思ってましたが。

吉「いや実際、僕は千昌夫さんって人がいなかったら、今日はないと思いますよ」

吉幾三さんといえば、もう1人、この人物抜きには語れない方がいる。2020年3月に新型コロナウイルス感染症で亡くなった志村けんさんだ。

吉「あの人くらいね、喜劇やコントができる人はいないですよ。志村さんの番組で何度も共演しましたけど、僕らがやるコント、台本に〝アドリブ〟としか書いてないですからね」

――吉さんが出られた『バカ殿様』などでのコントも?

吉「全部ぶっつけ本番、すべてアドリブです。志村さん、ちゃんと引き立ててくれるんですよ。ものすごい気つかうんだ、あの人」

志村けんさんと酔い潰れ…

志村さんの人柄を物語る、こんなエピソードを吉さんに紹介していただいた。

吉「前に故郷の五所川原でいくぞうハウスってお店をやってまして、そこで毎年盆踊り大会を開催してたんです。番組で青森に来た志村さんが寄ってくれて、『俺からのプレゼントだ』ってサプライズで花火を30発も打ち上げてくれた。盆踊り大会を中断して、みんなで見ましたよ。車いすで来ていたうちのおふくろに『おかあさん、元気でいなきゃだめだよ』って」

――かっこいいですね。

吉「いや、ほんとにカッコいいんだよ!」

――志村さんとはよく一緒にお酒も飲まれたとか。

吉「あの人と行くと、どうしても朝になるんだよ。そのまま仕事に行くもんだから、酔っ払ったまま朝の生番組に出たこともあります(笑)」

――お酒の席での思い出などあれば伺えますか。

吉「志村さんって、ちょっといたずらっぽいところがあるんだ。たとえば人のうちの犬にさ、黒いマジックで眉毛を書いたり」

――え? 眉毛ですか?

吉「よその犬にね、眉毛書いちゃうんですよ。飼い主は分かるじゃないですか。誰がやったのって言ったら、志村さん、僕を指さすんだよ(笑)」

――まるでコントですね!

吉「そうなの(笑)。僕や、ダチョウ倶楽部の上島(竜兵)くん、千鳥の大悟くんなんかはもっと深いところまで知ってるけどね。書いたら僕が志村さんのファンに怒られちゃうから(笑)」

――志村さんが亡くなったの、本当に寂しいですね。

吉「今年1月に出した『港町挽歌』のB面に入ってる『二人のブルース』って曲、まだ歌えないんですよ。劇場で歌いながら慣れていくしかないですよ。今年は追悼の意味も含めて、志村さんの写真を大きく引き伸ばしてステージに飾れないかって話もしてるんです」

――50周年に向けていろんな準備をされてるんですね。

吉「劇場3カ所と、地方は福岡と青森にも行きますけど、そのほかに歌だけの50周年のコンサートもあります。あと今の声で50曲歌います。10曲ずつ、5枚のアルバムを、今年の3月から来年の3月の間に出す予定です。ピアノでの10曲はもうとり終わりましたけど、米山先生にレッスンしてもらってるような気持ちでね、ちょっとジーンときました」

――盛りだくさんで集大成の1年になりそうですね。

吉「僕はそんな大した努力はしてきてないんですよ。ただ、人に恵まれた。これからは、そういった人に教えてもらったことを、うちの弟子とか、若い人たちに教えてあげなきゃいけないなと思ってます」

(文:牛島フミロウ/企画・撮影:丸山剛史/取材協力:徳間ジャパン)

吉幾三(よし・いくぞう)
青森県五所川原市出身。1973年に『恋人は君ひとり』で歌手デビュー。77年に現在の吉幾三に改名し『俺はぜったい! プレスリー』がヒット、さらに84年『俺ら東京さ行ぐだ』が大ヒットし、人気を不動のものに。デビュー50周年を前に、現在も「IKZO」として津軽弁のラップに挑戦するなど、精力的に活動を続けている。最新曲『ふるさとチョイス』が好評発売中。

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